『道元との対話』四(閑人亭日録)

  岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版は、「序章 道元との対話」が『道元に出会う』旺文社1986年からの収録。「第1章  『正法眼蔵』を読むとき」以降は『道元の見た宇宙』青土社1984年を収録。去年の夏に読んでいる。一年後の再読になるが、たった三十頁ほどの「第4章 道元の宇宙」 で手こずっている。再三読んで気づいたこと。

《  あらゆる現世の束縛をはなれて、正身端座のかたちをとることによって、おのれ自身を透明な鏡に転化する。それがものを曇りなく見る場所なのである。
  なお、ここで捨てる、離れる、常識を超えるといったことを、違った側面からいえば、時空の仮説を排除する、といってもよい。 》 258頁

 無理。

《 道元における知の折返し地点の所在は、かれの中国におけるある夜の経験にしめされている。いうまでもなく、「身心脱落、脱落身心」という経験である。 》  274-275頁

《 しかし、こういう比喩をつかうと道元の知が誤解される怖れもある。つまり、折返し地点に達したとき、そのときに一挙に全宇宙がその全体像をあらわすのであって、 文字通りに往路と復路があるわけではないからである。別の比喩を使えば、無限の水をたたえた深淵の底に足がふれたとき、そのとき、水中と水上、内と外、諸相と非相が 同時にキラリと見えたのである。二元ではなくて一元の世界が、おのれの足もとから開かれていく。それを実感したのである。 》 276頁

 なんとなく身近に経験したような気がするが、こんな経験したことがない。仏性世界・・・これが言葉ではそういうものかと思うが、実感としては、ない。幻視者、 思想家として、道元はすごいと思う。しかし、「身心脱落、脱落身心」という強烈な経験がない私には、その仏性世界には今のところ縁がないようだ。しかし『正法眼蔵』 を読んだだけで、とても理解できたとはいえない。道元の思考の展開、思想は、じつに広く奥深い。群盲像を評する気分。いや評するではなく、さわるくらい。
 おかしなことだけど、味戸ケイコさんの絵『はてしもなくて』1978年がなぜか思い浮かんでしまう。
  http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm

《  この絵には三つの異なる時間・空間が描かれています。一つ目は
  少女の時空です。二つ目は少女の後景の銀河星雲と、そこからはるばる
  飛来したように描かれている紙風船の物体の時空です。三つ目は
  少女の足元の闇から背景の宇宙へと広がっている無限の時空です。
  この三つの異なった時空がダイナミックに組み合わされて、
  一つの画面が構成されていますが、三者はバラバラの存在として
  描かれている訳ではありません。この三つの時空は、
  少女の心の世界の表象として、深く結び付けられています。
  絵の中心に位置するうつむく少女の隠れた瞳は、彼女の心の世界へ
  向けられています。その眼差しは、足元の深い闇に吸い込まれ、
  背景の宇宙を漂流し、銀河を通り抜け、紙風船のように少女の上を
  通り過ぎ、そして遠ざかって行きます。
  何ものにも届かない眼差しの航跡が、見る人の心に深い思いを刻みます。  》
  http://web.thn.jp/kbi/ajhate.htm

 午後、ブックオフ長泉店へ自転車で行く。文庫本を五冊。井上真偽(まぎ)『聖女の毒杯』講談社文庫2018年初版、西岡文彦『簡単すぎる名画鑑賞術』ちくま文庫2011年 初版、松浦寿輝『月の光』中公文庫2018年初版帯付、結城昌治『夜の終る時/熱い死角』ちくま文庫2018年初版、関根享・編『京都迷宮小路』朝日文庫2018年初版、計540円。

 ネット、うろうろ。

《 人間を「図」とし世界を「地」とする既存の人類学を反転させて、人類学は世界(地)から人間(図)を見つめる人間以上の大海に投げ出された。 生命はなぜ自由を謳歌できないのか。何が「浄土」の出現を阻んでいるのか。そうした問いを発しない大海に揺蕩うだけの新しき学は意味がない。【仏教と人類学メモ】 》  奥野 克巳
  https://twitter.com/berayung/status/1148221762103996416

四十五年ぶり(閑人亭日録)

  調べ物のついでに季刊『銀花』第二十号文化出版局1974年を開く。特集「らんぷの美」にやはり魅入られる。つづいて堀口大學の小特集「詩心の風光」へ。 詩集『沖に立つ虹』の小林ドンゲの挿絵に再会。やはり女性像に魅入られる。思い立って古本を探しネット注文。明日送本のメールが届く。わくわく。
 午後、雨の中市役所へ情報開示請求の残りの書類を受けとりに行く。まだできていないと言う。係が電話しませんでしたか?ねえよ。明日十一時出直し。
 晩、市役所の要請で、源兵衛川から清住緑地~柿田川へ歩く道順の打ち合わせ会へ。地元の町内会の役員たちから異見が続出。そりゃそうだ。地域住民には他所人が ずけずけと来て、閑静な住環境が損なわれるなんてとんでもないこと。下旬の現地検討会は来月下旬に延期。地元愛を実感。
 日録の休みをご心配された未知の方からメール。ビックリ。こんな拙文を読まれている方が居るとは。で、早めに日録再開。

『道元との対話』三(閑人亭日録)

  岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版、「第2章 道元の言葉」を読んだ。

《 もちろん、違うジャンルの文章を比較するわけにはいかないけれども、『正法眼蔵』の魅力はそのなかに謎があり、謎を解く鍵がひそんでいるということであろうか。 詩の美しさを超える、あるいはその美しさを否定するものが、そこにあるように思うのである。 》 118頁

《 つまり、禅問答の言葉は日常語ではなくて非日常語、非常語なのである。非常語でなければ、深淵をこえて自他のあいだに架橋し、眼に見える世界と眼に見えない世界 を同時に見て、それがそう見えたということをあるがままに表現することはできない。そこで詩語がこえられているのである。 》 132頁

《 言霊(ことだま)、言葉のうちにひそむ魂、言葉のなかにこもっている宇宙霊、言葉を生き生きと機能させる無限のエナジー、言葉の背後にひろがっている虚空。 言霊によって言葉は単なる言語ではなく、また単なる記号であることをやめて、さらには、単なる象徴であることを超えて、構造をもった生きものになるのである。「一」 になる。 》 134頁

 この論の展開は、全部を引用しなくてはわからないだろう思う。

《 認識人類学の方法の第一歩によこたわる知、認知、分類などと呼ばれる知的行為と、道元における「道得(どうとく)」、つまり知とその表現、あるいは知の言語表現 にふくまれている意味は、同じなのか、違うのか。違うとすればどこが違うのか。 》 139-140頁

《 認識人類学の主張は「言語と世界観」のあいだにかかわっているだけで、そこには「手」がぬけていたのである。手の動き、つまり身体的参加がなければ、言語も、 世界観もともに空中にただようことになる。 》 140頁

《  ひとつの運動の場のなかで、それぞれが緊密にむすびあっていることがわかる。これが認知の場の原型ではないかと思うのである。
  ただし、そうはいっても、ここに不可欠の問題がある。問いと答え、である。 》 140-141頁

《 自分が拳になって、拳が宇宙になって、その宇宙が〈わしは拳だ〉と叫ばなければいけない。つまり、認知という行為は、あるいは知の働きは、ここではそのものに 参与し、そのものと一体化し、そのものの存在、あるいは自他の存在、つまりは宇宙の存在を肯定するという構造をもっているのである。肯定する、然り、という、 自他の存在をあるがままに認める。 》 141頁

《 人間は水をどのように認知しているのか、天人は水を美しい髪飾りのように見做しているのか、そういう外からの見方だけでなく、水が水をどのように認識しているか、 水宇宙が水宇宙をどう思っているか、水のなかに参与して考えてみなければならない。 》 143頁

 レーン・ウィスラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』亜紀書房2018年刊へ連想が飛ぶ。

《 私が主張したいのは、(ユカギールでは)狩猟者が獲物をまねるという状況では、主体つまり「私である身体」と、客体つまり「動物の身体」との間の、この概念上の 区別が溶解してしまうということである。そして、狩猟者は主体と客体、自己と他社の両方であるような曖昧なものとして、自らの身体と同様に動物の身体を経験する ようになる。 》 『ソウル・ハンターズ』 166頁

《 エルクは狩猟者の模倣行為を通じて自らの身体を見る──つまりエルクは自らと同じ種を見る。一方、狩猟者は、自らの模倣行為をまねるエルクのふるまいを通じて、 自らの身体の鏡像を見る。換言すれば狩猟者は、彼に向かって歩み寄るエルクを見ているだけではなく、あたかも自分がエルクであるかのように、「外部」から自分自身を 見ている。 》 『ソウル・ハンターズ』 168頁

 人類学の「存在論的転回」。『道元との対話』へ戻る。

《 それはそれとして、道得、つまり言いあてるというのは、単に日常的な言語によって、理論をたてて、筋道をたどり、そのなかに因果関係を封じこめて解説するという ことではなかった。非常語で言う、絶対語で言い切る、根源語を発する。つまり音と耳の働きによって真実をさぐったのである。ところが、見得ということになると、 眼と光によってさぐり当てる。形が見える。現成する形をとらえることが大切なのである。 》 147-148頁

《 知から形へと、道元における思考の中心点が移っていたことは明瞭であろう。 》 148頁

《 そういう怪物としか言いあらわせないような『知の形』かもしれない。そういう『怪物』は、そういう『知』は、おそろしくて同時に愛らしく、醜くて同時に美しく、 逃げだしたくなるようでいて、かえって引きつけられてしまう。 》 151頁

 北一明の焼きもののデスマスクを連想させる。

《 存在の自覚のありかた、それは多分に個性的なものであろう。(中略)道元の場合には、自分の身体が闇のなかに脱落していき、その闇のなかから現成するという 経験をとおして、「言葉」、つまり「音」ではなく「形」が、かれの知の根源をささえていたのである。だからこそ、「その知は形なり、形は山河なり」といいえたので ある。 》 159頁

 味戸ケイコさんの初期の、鉛筆を主にした絵を連想させる。

《 言葉は──言語ではなくて言葉、文字化されたものではなくて音声をともなって語られる言葉──言と言霊(ことだま)のニ部分からなっている。 》 160頁

《 言霊は、さきにも述べたように魂=場所なのであり、精神の空間なのである。柄にたいする地なのである。 》 165頁

《 そういうわけであるから、「画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず」である。人間のもっとも根源的な願望に応えるものは絵だけであり、 その願望を表現する絵のなかで、人と人、人と仏が出会うのである。
  道元によって絵を描くことは絵そらごとではない、只事ではないということがよくわかった。(中略)
  道元は『正法眼蔵』九十五巻の言葉をついやして、一枚の絵を描こうとしたのである。道元の言葉は、いまや、絵になったのである。 》 197-198頁

 気になり、興味を覚えた箇所を引用。要点を引用したものではない。

《 仏といったり心といったり、実相といったり、言葉の自由すぎる使い方に戸惑われるかもしれない。しかし、大切なことは自分自身が柄から地の世界に参与して、 そういう世界のなかに融けこんで、自分がなくなってしまって、反転してそこから世界を眺め、宇宙を遠望することである。 》 210頁

 ネット、うろうろ。

《 名曲アルバム+「パッヘルベルのカノン」 》 TOU YUBE
  https://www.youtube.com/watch?v=0AJs4n9AoDI&feature=youtu.be

《 表現の不自由展・その後 》 あいちトリエンナーレ
  https://aichitriennale.jp/artist/after-freedom-of-expression.html

《  クリントの例は、従来の美術史の枠外にも、多くの人の関心を集めるアーティストは存在することを証明したように見える。

  美術館は、歴史上の特権階級に属する人々が好んだもののアーカイブという側面を持つ。そこからオブジェクトを選び出し文脈を付与するキュレーターや美術史家など も、高度な教育にアクセスでき、激しい競争を潜り抜けた、ある種の特権階級と言える。これまでの「美術史」とは、彼らのフィルターを通して語られる「物語」のひとつ にしかすぎなかった。/AIはアートの未来を変えるのか? 「アート+テックサミット」で語られたこと 》 美術手帖
  https://bijutsutecho.com/magazine/insight/20093

《 アベノミクスの成果。 》 中野昌宏
  https://twitter.com/nakano0316/status/1147091786285776896

《 週刊実話「下積みメシ」はマシンガンズ滝沢、ゴミ清掃員のバイトについて「何であれ収入さえあれば芸人を辞めなくてすむので、おかしな話ですが、 お笑いをやっていくための資金を稼いでいるような気分でした。」そのバイトが書籍にまでなる。 》 urbansea
  https://twitter.com/urbansea/status/1146806544262033408

 『道元との対話』ニ(閑人亭日録)

  岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版、「第1章 『正法眼蔵』を読むとき」を読んだ。

《 袱紗(ふくさ)を手にもって棗の甲(こう)を拭く。(中略)庭に面した広縁で、この動作をくりかえしていると、自分と庭の木々の姿が、次第にとけあってくる。 自分とその庭のひんやりした空気が、徐々に同調してくる。そうすると手のなかの棗は、どこそこの誰がつくった器物だという歴史を離れて、手のなかの宝器、手のなかの 宇宙になってくる。手と棗が、自分と宇宙を表現する。手と棗より外に、どこにも宇宙などというものは無くなってしまう。自分の身体を限る境界が消えるのである。 》  78-79頁

 北一明の焼きものを手にするとき、そんな心境になることがある。

《 自分で強いてそうするわけでも、他から強制されてそうするわけでもないが、きわめて自然に、おのずからに、そういう世界に入りこんでいる自分を発見する、 というのである。 》 82頁

 一昨日、源兵衛川で茶碗のカケラなどを拾っていたとき。次第に作業に没入し、水の冷たさを忘れ、なにかそこだけの結界に入っていたような感じを、作業を終えてから 気づいた。

《 われわれ一人一人は、それぞれが一人一人の宇宙人間なのである。一人の宇宙人間が同時に無数の宇宙人間なのである。一人は、一人であって一人ではない。(中略) 一人と一人、自分と鳥、自分と魚のあいだに境界がないからである。精神のひろがりとして、そう感ずるというのではない。身体がそうなのである。全心すなわち是れ 全身で、全身すなわち是れ全宇宙なのである。宇宙の出来事は、何もかも自分の身の上の出来事なのである。 》107頁

《 コスモス、つまる美的秩序をもった宇宙の統一体といっただけでは、そういう宇宙と尽十方体とは違うのである。どこが違うかというと、尽十方世界と呼ばれた宇宙は 仏法世界であり、仏国土なのだということである。 》 107頁

《 ときには、一挙に自分を拡大して、すでに自分が宇宙人間になったものとして、その自分を自己点検するのもよい。 》 112頁

《 というようなことで、拡大した自分、宇宙人間になることだってあるような自分、自分というものの境界線を棄ててしまった自分、山河大地、草木虫魚の友としての 自分が、その自分のあり方を点検する。 》 114頁

《 紫がかった濃紺の背景、それを限りなく美しいと見る人にとって、この背景は単なるバックではない。 》 101頁

 ”何かしらクレーの絵を見ている感じがする。”を受けての一文だが、北一明の茶碗を手にするときの印象に重なる。

 ネットで西東三鬼『神戸・続神戸』新潮文庫が話題になっていた。
  https://www.shinchosha.co.jp/book/101451/
 本棚から『西東三鬼全句集』都市出版社1971年初版を取りだす。『神戸・続神戸』収録を確認。巻末の大岡信の解説「三鬼への小さな花束」を読む。

《 三鬼の死んだ昭和三十七年(彼は四月一日という、まったく三鬼的な日に死んだ)二月に刊行された最後の句集『変身』から句を引いておきたい。

    変な岩を霰(あられ)が打って薄日さす
  (以下略) 》

 この句に北一明の焼きもの『耀変花生』を連想。その1977年の作品は、どの著作にも未掲載。こんなすごい作品が?と思っているところにこの句に出合った。

 午後、友だちと富士宮駅に降りる。駅前から伸びるひっそりした大通りをしばらく歩き、左へ曲がる。「えちぜんや」という看板が見える。そこが白砂勝敏さんの展示場。 お店を抜けた奥がギャラリーになっている。
 https://fujinomiya.gr.jp/event/3362/

 しばし談笑の後、白砂さんに案内されて富士山本宮浅間神社の湧玉池の上にある「掬水」というゲストハウスのカフェへ。湧水を見下ろしながらの話は弾む。
 https://guesthouse-kikusui.com/
 再びまちなかアートをしばし鑑賞。午後六時過ぎ帰宅。

 ネット、うろうろ。

《 言うまでもないが「自分で考える」ためには「異質な他者に拓かれる」必要がある。「自分の正しさ」ではなく「複数の正しさ」を認める必要がある。 他者への傾聴、そして尊重。もし、それがなければ「自分で考えている」と考えることは、妄想にすぎなくなる。 》 中島 智
  https://twitter.com/nakashima001/status/1146725721701617664

『道元との対話』(閑人亭日録)

  今夜は荒模様、なら白石かずこだが、夜は知らず、朝は荒れ模様。ふっと雨は一休止。積本の上にある横尾忠則『名画 裸婦感応術』知恵の森文庫をまた手にする。 「13 マン・レイの気まぐれ」に惹き込まれる。

《  創造が人間の本能と切り離されているような作品は感動とほど遠いように思う。どうも現代の芸術は感動より理解を求めているように思う。
  だから、マン・レイのように「気まぐれ」に描いた生理の産物である作品に理解を求めても意味がない。ただ心を開いて彼の芸術を迎え入れればいいのである。 》  91-92頁

《 デュシャンは20世紀の現代美術の地平を大きく拡大した一人であるが、マン・レイデュシャンの観念芸術とは別に感応芸術の地平を開いた一人として、人間の 今後の生き方に大きい影響を与えることになろうとぼくは予感する。 》 92頁

 マン・レイの流れにある人が、白砂勝敏さんだ。明日は富士宮市で催されている「まちなかアートギャラリー」に出品している彼の作品を見に行く。
  https://shirasuna-k.com/
  https://fujinomiya.gr.jp/event/3362/

 岩田慶治道元との対話 人類学の立場から』講談社学術文庫2000年初版、「序章 道元との対話」を読んだ。『正法眼蔵』の[三六]「光明」が引用されている。

《 生死去来(しょうじこらい)は光明の去来なり。超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)は光明の藍朱(らんしゅ)なり。作仏作祖(さぶつさそ)は光明の玄黄(げんおう) なり。修証はなきにあらず、光明の染汚(ぜんま)なり。(中略)烟霞(えんか)水石、鳥道玄路、これ光明の廻環(ういかん)なり。自己の光明を見聞するは、 値仏(ちぶつ)の証験なり、見仏の証験なり。尽十方界は是自己なり。是自己は尽十方界なり。回避の余地あるべからず。(以下略) 》 52頁

 道元独特の言い回しで、ルビに不備がないか心配。玉城康四郎訳の『正法眼蔵 3』大蔵出版1995年2刷では、「染汚(ぜんな)」、「廻環(かいかん)」とある。 玄黄(げんおう)は、天の色の黒と地の色の黄。画家上條陽子さんの出世作『玄黄(げんこう)』東京国立近代美術館蔵を連想。『正法眼蔵』の読みは「しょうぼう げんぞう」。以前は誤読していた。尽十方は「じんじっぽう」。見仏で思い出す。昔フランス好きな女子大生が、いとうせいこうみうらじゅんの共著『見仏記』 中央公論社1993年刊を図書館で借りた。「フランスの案内だと思った」。
 それはさておき。岩田慶治は引用を受けて書く。

《 何のことかさっぱりわからない、といわれるかもしれない。しかし、それはそれでよいではないか。あまりに穿鑿することもないであろう。 》 52頁

《  道元は言葉使いのシャーマンなのである。
  悟りなどというものは、すでに木っ葉微塵になって虚空にちらばっているのである。 》 52頁

《 わたしは柏の木と対話する。といって柏の木が答える筈はない。この場合、対話は対話でありながら独語なのである。ダイアローグがモノローグと重なる。そこで、 わたしと柏の木は包み込まれているのである。「わたし」は「あなた」、「あなた」は「わたし」なのである。

   これは両人の相見なり。両人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる(「古鏡」)。

  わたしはいわゆるアニミズムにおけるカミの経験の背後に、こういう直観、こういう洞察、あるいは悟りを想定しているのである。 》 68-69頁

《  われわれはこのカミの土台の上に、宗教を、いや世界そのものを再構築しなければならない。
  そこから腕をのばして、自分自身が一本の筆となって世界を描く、宇宙を描くのである。「画餅国土」(画餅(がびょう)」である。

   生死去来はことごとく画図なり、無上菩薩すなわち画図なり、おほよそ法界虚空、
   いづれも画図にあらざるなし(前掲)。 》 69-70頁

《 竹が自分で竹の絵を描き、芭蕉が自分で芭蕉の絵を描きあげる。そういう見方からすると、人間も仏も、ともに自分で描いた絵にほかならないのである。それらが 一緒に描きこまれているのだ。自分で自分の絵を描きあげる。その行為が森羅万象を荘厳ならしめることなのである。
  「ただまさに尽界尽法は画図なるがゆゑに、人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり」(前掲)である。 》 71頁

《 カミの土台の上に世界がやすらぎをえている。森羅万象が生き生きと自分自身を表現している。そういう世界の実相が、あるいは構造が、ここに露呈されているように 思うのである。 》 72頁

 わかるような、でもまだよくわからん。いつか腑に落ちるだろう(か)。

《 それでは、最後のハードルは何か。それは「衆生が病んでいるあいだは、自分の病もよくならない」(長尾雅人訳『維摩経(ゆいまぎょう)』中公文庫、一九七三年) といった維摩(ヴィマラキールティ)の世界に入ることではなかろうか。 》 54頁

 本棚からその本『維摩経』を取りだす。ルビは「ゆいまきょう」。裏表紙の宣伝文が読む気にさせる。

《 経典文学の白眉といわれる『維摩経(ゆいまきょう)』は、大金持ちの俗人維摩居士と多彩な登場人物が試みるアイロニーに満ちた対話によって、深遠なる「空」の 思想を鼓吹する一大ドラマである。 》

 ネット、うろうろ。

《 道元について考えたことや、垂直性の話をまとめておこう。。 》 清水高志
  https://twitter.com/omnivalence/status/1146385664293797888

《 余白は、柄を包んでいるようだが上下で開いている。余白から立体包摂へ。 》 清水高志
  https://twitter.com/omnivalence/status/1146395202099171329

《 まず、平たく捉えないと、そこから直角にある垂直性が分からない。 》 清水高志
  https://twitter.com/omnivalence/status/1146398732788719616

《 ガブリエルの日常的言明(主観的述語)を三次元で言うとこう言うものになる。岩田さんが柄に対する地の関係で考えているのもそれだ。排中律の二項だけではなく、 最初から垂直の立体ベクトルがあって、それに包まれていたのだ。 》 清水高志
  https://twitter.com/omnivalence/status/1146400574637608960

《 探しものをすると部屋が片づくなぁ。ものは出てこないけど。 》 山田英春
  https://twitter.com/lithosgraphics/status/1146275477700657152

《 勉強会とワークショップと計画でまちが変わったのをみたことはない。 》 木下斉
  https://twitter.com/shoutengai/status/1146558383274614789

《  どんどん動く日本の官僚のゴールポスト

  『公文書を書き換えただけで、改ざんとは位置づけていない』

  『老人は毎月5.5万ほど貯金を取り崩す必要はあるが、生活費不足とは位置づけていない』

  『人が減り、廃れていく一方だが、過疎とは位置づけていない』←NEW! 》 ブルドッグ
  https://twitter.com/Bulldog_noh8/status/1146278452666032128

《 安倍さん、あんた馬鹿じゃないか。少しはトランプ見習って、外交成果でもツィートしたどうなの。ま、ツィートできるようなこと何もないけどね。 》 小松崎拓男
  https://twitter.com/takuokomart/status/1145901349671858176

《  次は
  「北方領土を忘れない」
  「これまでありがとう北方領土
  あたりと予想  》 yoko
  https://twitter.com/yoko72525498/status/1145938909861302273

『名画 裸婦感応術』(閑人亭日録)

  昨日ふと使った言葉「感応」から横尾忠則『名画 裸婦感応術』知恵の森文庫2001年初版をパラパラと再読。どのページを開いても面白く刺激で、読みふけってしまう。 横尾忠則、只者ではない(当然だが)。正直(辛辣)な言葉使いがなんとも正鵠を射ていて爽快。日本人について。

《 まあ権威に弱いところと、常識を重んじるところと、孤立したくないところは共通している。この三原則こそ芸術が最も忌み嫌うところである。 》 69頁

《  20世紀美術を面白くしたのも、つまらなくしたのも、マルセル・デュシャンだったといえば、大方の美術関係者で納得する人はいないだろうと思った。(中略)
  別にデュシャンの作品がつまらないというのではない。そのエピゴーネンがつまらないのである。ではそのエピゴーネンは誰なんだと問われれば、デュシャン以後の 美術家全員だ! ということになりそうだ。何しろ「デュシャンの子供」を名乗る美術家が後を絶たない。 》 180頁

《 だけどぼくは正直いってデュシャンは確かに面白いと思う。いいか悪いかは別にして面白い。面白いというよりおかしい、いや馬鹿馬鹿しい。 》 181頁

 きょう目を惹いたのは「17 もうひとつの夢 ポール・デルヴォー『こだま』」。

《  ぼくがこの絵を見て感じるのは五感である。五感を全開して見ると、この絵のエロティシズムが分かるかもしれない。いや分かるのではなく、感応するのである。
  絵を見ることはよく「観る」ことである。「観る」ことによって音が聴こえてくる。また匂ってくる、また味の記憶が蘇ってくる、何かに触れた感覚に襲われるかも しれない。 》 114-115頁

《  昼間と夜の二つの現実、または二つの人生を生きているという自覚を持つことによって、人は創造的であると思う。この事実をデルヴォーは彼の作品を通して われわれにさらに意識させてくれているのである。
  絵画はもうひとつの現実、もうひとつの夢といえるだろう。 》 115頁

 六月三十日の日録で話題にした道元の「画餅(がびょう)」に通じるものを感じる。

《 現代の芸術は論理や言語で認識するものだと考えられいるが、ぼくはやはり感応するものだと思う。感応とは人と人との間に作用が働いて反応しあうことである。 》  138頁

 頷く。

《 デザイン界と違って美術界は随分排他的な所だなあとつくづく思ったが、この考えは今も変わらない。 》 219頁

 陶芸界も同様。

《  自己あるいは「私」を描き切ることによって普遍性に到達しなければ、単に「個人」的表現に終り決して「個」の表現にはなり得ないはずだ。
  「個人」は自我の枠内に閉じ込められた「私」であるが、「個」は自我から脱却した存在で、私でありながら私でない存在、つまり宇宙の原理原則の軌道に足を 踏み入れたことになるのではないだろうか。 》 229頁

 朝、源兵衛川上流部、蓮馨寺横の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。サンダルに川風が心地よい。帰宅。汗。シャワー。アイス・コーヒー。やれやれ。

 ネット、うろうろ。

《 玉置浩二さんを阿修羅像として描いた作品です。 》 横尾忠則
  https://twitter.com/tadanoriyokoo/status/1145950726926917632

《 興福寺で「阿修羅像」を見た後に、橿原昆虫館に行くという旅。・・そこで、昆虫の形態と阿修羅像を比べて考えてみたが、阿修羅は腕6本で、 昆虫も足6本で同じで、阿修羅の腕の太さとか昆虫ぽいし、阿修羅像じつは昆虫?、という仮説が浮かんだ 》 布施英利(ふせ ひでと)
  https://twitter.com/fusehideto/status/1145979290959273984

《 ポーランドグダニスク出身のEU大統領がG20で来日し、長崎と広島を訪れて語った言葉が心に沁みます。どこかの大統領や首相とはえらい違いだ。 「「手遅れになる前に目を覚ませ」EU大統領が広島で語ったこと」 》 森岡正博
  https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1145909411530956800

《 菅官房長官が常套句として使い、官邸クラブ記者が唯々諾々として従う「その批判は当たらない」という語法は、典型的な「権威主義的語法」の1つ。 上位者が居丈高に言い放つ「俺様が問題ないと言ったら問題ないんだ、文句あるか」という言葉を、もっともらしく言い換えただけ。 》 山崎 雅弘
  https://twitter.com/mas__yamazaki/status/1145987849499492352

《 60年生きているが、安倍ほどスカスカで意味不明な日本語を弄して生き残ってきた総理大臣を知らない。70年生きている人も80年生きている人も そう感じている方は多いのではないかと思う。これは安倍一人の問題ではなく、私たちの社会で言葉がいかに軽く空疎になってきたかという背景があるように思う。 》  大野左紀子
  https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1145989933867261952

《 老後2000万円の報告書を書いた人を辞めさせても何の解決にもなってないよな。 》 下流人生、風俗日記
  https://twitter.com/karyujinsei/status/1146091105349279744