『文様の博物誌』三

 吉田光邦『文様の博物誌』同朋舎1985年初版を少し読んだ。

《 波は波そのものに止まらないで、波のしめす海に重点がおかれる。表現されたものに意味を限定せず、むしろその背後にひろがる世界を観るものの心象に 呼び起こさせること。それが日本の文様のきわめて特徴的な性格である。 》 「水」 58頁

《 不思議なことに西方では、ほとんど水を思わせる文様表現は見当たらない。 》 「水」 61頁

 午前、中学校の一クラスを源兵衛川と四の宮川へ案内。正午前帰宅。喜んでもらえたか心もとない。が、いくつもの質問が寄せられたので、よしとする。
 午後、懸案を友だちがさっと処理。さすが。あれやこれやの毎日で夕方にはグッタリ。そのため『文様の博物誌』、じつに興味深く刺激的だけど、少ししか読めない。

 ネット、いろいろ。

《 美術史はリニアには語れない。それは小集団内での “ヒット史” にほかならないからである。例えば、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、 美術史家ヘルマン・フォスに再発見されるまで 300年間忘れられていた。その再発見の背景には、キュビズムなどの前衛にたいする反動/食傷があった。 》 中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/1054775534515671040

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、私の判断の基準となる画家。

《 村瀬恭子展 @ αM を観た。アビ・ヴァールブルクが着目した、絵画のなかの「揺れ動くもの」のみで、画面が成り立っている。こういう主語のない絵画は、 ずっと観ていられる。 》 中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/1055060200397258753

 ”主語のない絵画”。私の惹かれる絵画はそれなのかも。

《 『実在への殺到』に対する仏教学からの応答 》  moroshigeki's blog
 http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/2018/10/24/013529

《 田沼正史『日本ロック史』(加美出版)がものすごく面白い。田沼は本書で日本のロック史観が「現在活動している音楽家の個人史に収斂され、 その人脈に関わったものだけが、あたかも当時から社会的に重要な位置にあったかのように曲解、誤解され」ている状況を静かに刷新します。 》 植田浩平
 https://twitter.com/mojohey/status/1055378439346118656

《 杉田水脈議員は「生産性という言葉は本当に不適切だった」と認めつつ「当事者の人権を否定するつもりはなく、差別するつもりも全くなかった」と釈明した。 そう、謝罪や撤回ではなかったのだ。差別するつもりも全くなかった? ではどんなつもりだったのか。これが自民比例中国ブロック1位の正体である。 》  立川談四楼
 https://twitter.com/Dgoutokuji/status/1055308212197502976