版木は同じでも

 昨日買った原田康子「蝋涙」講談社1999年には清宮質文の多色摺木版画の画題が記されていない。手元の図録では表紙が「キリコ」1959年、扉が「コップの中の蝶」1962年。キリコは切子ガラスのこと。本と図録では色摺りが微妙に違う。創作版画家によく見られることだけれど、同じ作品(版画だから複数できる)でも、伝統木版画と違って一点一点の摺りがかなり違っている。よく言えばどれも一点もの、ハッキリ言えば摺刷技術がなってない。沼津市木版画家山口源の作品集を制作するとき、どの摺りの木版画を画集に載せるかで悩んだという話がある。清宮質文も同じだ。摺りが下手なことを下手として認めたうえで作品を判断しなくてはいけないと思う。複数を同一に摺る技術はあるけれど、同じものを摺ってもつまらないから色摺りを違(たが)えたというのなら、話は別だけれども。本当のところはどうなんだろう。

 毎日新聞昨夕刊、「美術」欄は三田晴夫の記事。冒頭の文。
「作品の鮮度は、進化を遂げた素材やメディア、あるいは目新しい様式からは発しはしない。あくまでもそれは、視線の習性を裏切り、知覚の予定調和を覆すような表現自体から放たれるアウラだからだ。」
 深く同感。コンピュータ・グラフィックスやビデオ・アートで、未だに心揺さぶられる出合いがない。既にどこかに出現しているのだろうけど。あるいはこちらの感性が鈍いか。