世間遺産・トマソン

 ブックオフ長泉店の105円棚に少し欲しい本が何冊かあるけど「少し欲しい」ではダメダメと出口へ向かう。と、最近設置した105円児童書のもってけワゴン台にほるぷ出版の復刻本シリーズがゴロゴロ。とりあえず確認のため手に取る。その「復刻 世界の絵本館─オズボーン・コレクション─」 1989年刊から結局四冊をレジへ持っていってしまった。大きい絵本から順に、エドワード・リア作・画「ナンセンスの本」、ケイト・グリーナウェイ作・画「窓の下で」、クリスティナ・G・ロセッティ詩/アーサー・ヒューズ画「シング・ソング」、トマス・ビュイック画「新年の贈り物」、計420 円。どれも易しい英語なので追々辞書を片手に読んでみるか、とは思っている。「シング・ソング」なんか語呂がいいので、翻訳したらその面白さがまず失われてしまうだろう。詩の翻訳の難しさと不可能性を改めて感じる。
 美術作品は違うよ、とは言えない。その作品の生み出された時代背景社会的意味を知らないと、真っ当な鑑賞とは言えない。自らが生きてきた時代社会とはえらく異なった背景がそこにはある。たった百年余り前のフランス印象派といえども、今(でも当時でも)の日本とはひどく異なったフランス社会だから。そんな無智をもとにした観賞=受容でも、優れた美術作品は観る人に大きな感動を与える。それが誤解にもとづいた観賞であっても、だ。だから美術観賞は面白い。
 最近の実例がトマソンだろう。昨日、学生たちに源兵衛川下流部の物置小屋を「世間遺産」と指摘したところ、大いに受けた。その近くのトマソン物件(便座二基が前後に接している)を指摘すると、学生二人が便座に座ってハイ、ポーズ。無意味=廃棄物と化したモノに面白さを見出す。トマソンとアニメは、浮世絵にハマッタ印象派から一世紀後の、日本から西欧への第二波かも。しかし、トマソンは、アニメやカラオケ、寿司ほどにはアチラに浸透していないようだ。

 絵を描いている三島市の主婦からメール「歩くウミシダ」。これは面白い。
 知人女性から明日の夜九時からのテレビ東京のドラマで、彼女のダンナが制作している貝合わせが使われるというメール。観なくては。