昨日の毎日新聞夕刊に北京で開催中の「もの派とは?」展について峯村敏明の記事。
「中国の現代美術は、単純化して言えば、天安門事件後の地下活動でそれまでの公認社会主義リアリズムの絵画からいっきょに秩序攪乱的な身体表現へ、そしてシニカルなポップ絵画に移行したけれど、既知の物体を知的・遊戯的に操作してその意味体系の変化を楽しむといった、シュルレアリスムのオブジェ作法を経験する余裕を持たなかった。」
という分析は説得力がある。この前来館した北京中央美術大学の教授たちの話や作品集からもその様子がうかがえた。
「もの派は、まさにこのシュルレアリスム由来の知的・遊戯的なオブジェ観を人間中心主義思想の残滓としてきっぱり振り捨てたときに成立した。」
「両国間で経験の中身と厚みにかなり違いがあるということである。」
その「もの派」の数作品を先週静岡県立美術館で観たけど、現代美術の脈略を知らない人にはなんのことやらと思われるだけのようだ。現代美術にとっぷり浸かっているマニアならば、おお、こういう脱出口があったか! と感心しただろうけど。現代美術とは無縁の人々にとってはマルセル・デュシャンの「泉」と同様に、ただの切り石が置いてある、としか思えない。何の感興もわかない作品を「こういう美術史的意義がある」と説明されて「なるほど」と「勉強」するだけの美術作品とはなんだろう。そういう美術史の理解も必要とは思うが、「?面白い!」という感想を惹起させなくては、作品とは言えないだろう。「もの派」の多くが、すでに驚きの鮮度を失っていると思う。
歳月の荒波のなかで作品の鮮度と訴求力はどのように耐久するのか。展示している味戸ケイコ、安藤信哉、深沢幸雄の30年以上前の絵画を観て、その色褪せない魅力に感銘する。三者とも「現代美術」とは縁遠い現場で制作していた。おそらく三者とも前衛性や斬新さを念頭に置いては制作しなかったと、私は思う。同時代の前衛性礼賛の風潮に振り回されなかったことが、鮮度を保っている理由の一つだろう。おのおのが自己の奥深くに認識の探照灯を下ろしていたからだろう。
夏至というのに小雨ぱらぱら、ブックオフ長泉店までお散歩。乾くるみ「イニシエーション・ラブ」原書房2004年初版帯付、一冊じゃカッコ悪いから手塚治虫「悲恋短編集」講談社漫画文庫2002年2刷を足して 210円。