等身大

 昨晩は久しぶりにブックオフ三島徳倉店へ自転車で行った。荻世いをら「公園」河出書房新社2006年初版、横山秀夫クライマーズ・ハイ文藝春秋2003年初版帯付、鈴木大拙「禅」ちくま文庫2006年11刷、計315円。荻世いをらは、先月の「NOIZ・2007」に本名で出品していた。

 毎日新聞昨夕刊、「テリー伊藤の現場チャンネル」のお題は「阿久悠さん」。
「ある時期から、ミュージシャンたちは自作自演が主流になった。そのことについて、2年ほど前、阿久さんに聞いてみたことがある。
 『最近の若い人たちの曲って、どう思います?』 
 『ちょっとかわいそうな気もするよ。みんな等身大の自分の歌ばかりでしょ。歌というのは、もっと劇的に変身したり、悪魔にもモンスターにもなれるものなのにね』」
 これは俳句短歌にもいえる気がする。昭和の時代には俳句短歌は眩しいまでに発光していた。それが今は間接照明ほどの居心地良さに照度が落ちていると感じる。眩しければ影もそして闇も一際深い。身を裂くような強烈な作品に出合わなくなり、平成になって俳句短歌への関心が薄れていった。あるいはそういう文化芸術の衰退現象は1980年頃に始まったのかもしれない。十年かけて衰退してゆき、平成に入ってバブル崩壊とともに表舞台を去った。
 「ポケット・ジョーク15 芸術家」角川文庫1985年にこんなのがあった。「習性」。
「ある売れない役者が、船から落ちた。すぐそばを灯台の灯りが照らしていて、船に戻るのは難しくはなかった。だが、役者は結局、溺れ死んでしまった。というのも、彼は、スポットライトのなかでいつまでも泳ぎつづけたからだ。」

 一つの芸術文化が廃れ、その倒れた老樹から新たな芽が生え育ってゆく。それは果たして誰か?