描かれた夜・夜を描く

 十九世紀は第一次世界大戦(1914─1918)によって完全に消滅したという説がある。十九世紀的なるものがこの戦争で完全に潰え、二十世紀型にとって替えられた。第一次世界大戦は、それまでの戦争の形態を激変させるものだった。
 二十世紀の終焉を告げたものは9・11テロだ。では、二十一世紀の始まりは? 私見ではイラク戦争だと思う。なぜ、イラク戦争なのか。独裁国家から民主国家への転換が戦争によって導かれるという二十世紀型の枠組みが機能しなかった点に尽きる。1945年の日本で成功したものがイラクでは全くうまくいかなかった。戦争が終結したら内戦が勃発。解決の糸口は見えてこない。

 世の中は一層暗く、闇の中を手探りで歩いているようだ。その先に落とし穴が待ち受けているかもしれないという不安を抱えている。同じ夜でも、十九世紀と二十世紀ではその描かれ方が随分違っているように思う。日本に限定するが、井上安治、小原古邨、川瀬巴水、高橋松亭らの夜は、十九世紀の残照だ思う。その多くは、人々がまだ起きている時刻の夜だ。寝静まった深夜の絵は少ない。生活の中の背景としての夜だ。深夜は魑魅魍魎が跋扈する魔の時だからだ。私は、古邨らを新古典派と勝手に名づけている。
 対して第二次世界大戦後に生まれた絵はどうか。坂東壮一、 深沢幸雄に代表されるように、そこには生活者は姿を見せない。夜の意味が激変していることに気づく。舞台の背景として描かれていた夜は一転、主役級の夜になっている。人事生活に密着していた夜は、深い思索の場としての夜に変貌している。夜そのものが主題として前面に出てきたのが、日本では第二次世界大戦後だった、といえると思う。先駆者として、詩人の萩原朔太郎や小説家の梶井基次郎らがいる。前者の「青猫」、後者の「闇の絵巻」などだ。戦前からの助走を経て戦後に姿を現したのが、埴谷雄高「死霊」だ。

 ブックオフ長泉店で二冊。朝永振一郎量子力学と私」岩波文庫1997年初版、山内昌之「歴史の想像力」岩波現代文庫2001年初版、計210円。