江戸のその後

 夜更けから未明にかけて雨。
 そんな雨音を耳にしながら音楽をがんがんかけた昨夜、読書の醍醐味を味わった。一昨日記した大月隆寛「独立書評愚連隊 天の巻」国書刊行会小谷野敦江戸幻想批判新曜社の評208頁。
「それでもなお、この書き手はやはり信頼するに足る同時代の知性だという根拠を、最後に二点。橋本治の「江戸にフランス革命を!」を正しく評価し、呉智英の「江戸」理解の平衡感覚をすくいあげている。この読み手としての健康さが何よりの証拠だ。」
 に触発されて昨日帰りがけにブックオフ長泉店に寄って橋本治「江戸にフランス革命を!()江戸その後」中公文庫1994年初版を買い、読んでみた。これが大当たりだった。金鉱脈を探し当てたようなもの。26歳の時に「美術手帖」に発表した「明治の芳年」にはこんな記述。
「この時代にもっとも生々しい恐ろしさを発散する作品は、『奥州安達原、一つ家の図』であるが、この図で最も恐ろしいのはこの天井から逆さ吊りになった妊婦が決して殺されない所にあり、殺されるために吊るされたのではなく、吊るされるために吊るされた所にある。」
「この時代は、殺し殺されることによって完結した『無惨絵』の時代ではなく、責め責められる無限地獄の繰り返しであって、決して完結しない『責め絵』の時代だからである。」
 眼から鱗が落ちるとはこのことだ。時代考証に裏打ちされた洞察力にはただ舌を巻くのみ。続く「安治と国芳──最初の詩人と最後の職人」にも感服。
 小林清親と弟子の井上安治を対比して、清親について書いている。
「やっぱり彼は下手だったのだ。清親の作品の多くは、彼の画家としての苦闘しか語っていない。」
「井上安治は、私が知る限りでは、日本で最初に『寂しい……』という感情を表現してしまった"少年 "である。」
 以下興味深い記述が続くが省略。私がなぜ小林清親の風景画に惹かれず井上安治の 風景画に惹かれるのか合点がいった。
 それにしても橋本治だが。大月隆寛は書いている。
橋本治というのは、すこぶるつきに奇妙なもの書きである。まず、これほど評価のない作家も珍しい。評価が低い、ならわかる。ない、のだ。」
 美術に関してなら、見え過ぎてしまう人だ。普通の学者がなんとなく感じている「違い」をその分解能に優れた鑑賞眼で鮮明に理解し、明快な言葉に変換してしまう人なのだろう。明治を維新〜文明開化ではなく「江戸のその後」とするセンスの人だ。参った参った。

 ブックオフ長泉店で二冊。都築響一「巡礼〜珍日本超老伝〜』双葉社2007年初版帯付、星新一「つねならぬ話』新潮社1988年初版帯付、計210円。前者は大竹伸朗の表紙画。