カラマーゾフ

 安藤信哉展初日といっても何かをするわけでもない。淡々と過ぎてゆく日々の一日ではある。知人から感想メールが届いた。
「余白 余韻 印象 余白まで計算された感覚 その感覚を研ぎすまして 無駄を取ると あんな風な絵を描けるのだろうか…」
 安藤信哉晩年に到達した画法だから、それはなかなか出来ないとは思う。彼こそ孤高というよりも単独峰の画家というべき人だと思う。先例類例を思いつかない。日展会場では流して見ていって、安藤氏の絵で目が留まった。他の絵からかけ離れて独自な魅力を放射していた。悪い表現かも知れないが、浮いていた。

 世界文学の海に浮いているドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」の再読をやっと終えた。無数といえる世界の小説が沈んでいる大海に120年あまり浮上している小説は、やはりそれだけの強力な浮上力がある。読んだのは毎日出版文化賞を受賞した亀井郁夫・訳の光文社文庫ではなく、原卓也・訳の「新潮世界文学」全集本。底知れぬ視線の深さだ。

 毎日新聞昨夕刊コラム、飯嶋和一「晴れても降っても」から。
「すべての表現は、その底にある動機の深さによって輝きを増すものだ。そして小説は、読む人にそれまでとは異なる角度で世界を見る力を与えることができる。(略)たとえ状況は同じであっても、見る角度を変えることができれば、世界は変わる。」