人生しろうと

 お昼まで東京田端からバスで来た30人をグラウンドワーク三島の事業地、境川清住緑地と源兵衛川に案内。清住緑地の隅に放置されていたコンクリート製の家庭用ゴミ箱を、「ワシが作ったゴミ箱や」と年配の方が興奮気味に言う。「三島ではまだ現役で使われていますよ」と応える。源兵衛川中流の三石神社でトイレ休憩のとき、カワセミが上流へ飛翔していった。運良く見た人は喜ぶ。

 古本ソムリエの日記23日で洲之内徹「気まぐれ美術館」新潮文庫1996年初版のジャケット(カバー)に誤植があるという指摘。たしかに田村泰次郎が「田村泰二郎」になっている。確かめついでにワイエスとペン画の斎藤和雄に触れている「正体不明」を読む。
「芸術の世界でも分業化と専門化が進んでいるわけだ。物語的であることは、いまの絵ではいけないことになっている。つまり、ワイエスはそういうくろうとの眼から見ると、絵画はこうでなければならないというものでないのであろう。」
「なにかある事について、こうでなければならないという基準のようなものを心得ているのがくろうとで、そんなものにはお構いなしというのがしろうとだ、と。」
「すくなくともワイエスに関する限り、私はしろうとでよかった……。」
 くろうと=専門家が柔軟性と謙虚さを欠いた知識偏重専門バカに成り下がっているから困る。私もしろうとでヨカッタ。
 斎藤和雄について。
「とにかく、私は初めて彼に作品を見せられたとき、文句なしに、恐れ入ったという気がしたが、いったい絵というものは、解るとか解らないとかいう前に、ひと目で、見る者に否応なく頭を下げさせるようなものがなければ絵とは言えない、というのが私の持論である。」
 そのとおり。賛成賛成。