襤褸(らんる)の片(きれ)

 永井荷風「墨東奇譚」(墨はサンズイに墨)の「7」。
「つまり彼は真っ白だと称する壁の上に汚い種々(さまざま)な汚点(しみ)を見いだすよりも、投げ捨てられた襤褸の片(きれ)にも美しい縫い取りの残りを発見して喜ぶのだ。」
 ワカル。廃墟まではゆかないけれど、佇まいのそこここに何気なく捨てられ忘れらえれたモノにひどく愛着を感じる。赤瀬川原平らのトマソン=無用物物件に通じるものだ。そんな無用物は十分古ぼけているので、もうこれ以上古ぼけはしない。だからこその最期の輝きなのだろうか。おかしなもので、そういうモノは、収集してその現場から離れて展示されると、その殆どがただのゴミと化している。現場にあった時の輝きは無残にも失われている。その場にある磁力=現場力が、深い輝き=引力を発している。そんな苦い経験をずいぶん積んで、最近は写真や記憶の残像に遺すことにしている。それは一種のファンタジーであり、現在への異議申し立てのノスタルジーなのだ。その美を勘違いすると、骨董にハマルのかも。鶏中の鶴=埋もれた美とゴミ寸前の末期の光片を判別するのはなかなか難しい。眼光を与えれば、どれも反射光を反すから。
 それにしても、語り手の心情、しみじみと共感。石川淳「敗荷落日」のきつい言辞もわかるが。

 静岡新聞一面下段コラム「大自在」。静岡県立美術館でのシャガール展にふれて。
「時代にほんろうされながらもひたすら描いた画家は日本にも数多くいた。江戸期画壇のカヤの外におかれた伊藤若冲、明治期の京都画壇から汚い絵とののしられた甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと)、戦前の中央画壇に古い絵と酷評され活躍の場を失った田中一村ら」
 続ければ、半画と見下された木版画絵師小原古邨ら。

 ブックオフ長泉店で三冊。紀田順一郎+谷口雅男=監修「ニッポン文庫大全」ダイヤモンド社1997年初版帯付500円、川上弘美「古道具 中野商店」新潮社2005年初版帯付105円、西牟田靖「写真で読む 僕の見た『大日本帝国』」情報センター出版局2006年初版帯付105円、計710円。
 「ニッポン文庫大全」、編集委員岡崎武志のコラム「絶版文庫漁場の穴場発見!」118頁。
「店主側からすれば、見た目に古い文庫は値がつかないゴミと判断して、たいしてチェックせずに均一台にほうり込む。それが絶版という視点から見れば、一転してゴミが宝となって光り輝き始める。」