「悪の華」に近い

 昨日ふれた塚本邦雄「夕暮の諧調」で、彼は俳人西東三鬼に言及して「桃源の鬼」を著している。そこには西東三鬼への痛烈な批評が展開されている。一部を引用する。

 簡潔ならばもっと暴力的な単純さで、
 「三鬼と呼ぶ傑出した俳句作家がいた。(引用者略)鬼才の名にあたいする作品を書いた。晩年、自分より俳人格と俳壇的地位高く、詩才貧しい俳人に帰依随順し低迷混乱のまま没した」
  とでも言った方が、礼を失し、残酷にすぎるとしても、より真実に近いだろう。彼が帰依した俳人はいうまでもなく誓子のことだ。

 西東三鬼と山口誓子については21日に話題にしている。

 本棚から「西東三鬼全句集」都市出版社1971年を取り出す。この本の帯には小説家松本清張の推薦文。
「その詩趣はボードレールの『悪の華』に近いが、それよりも東洋的な虚無の美しさがあり、豊かで鋭敏な感覚がある。」

 挟み込みの栞には俳人加藤郁乎(いくや)の「変身する西東三鬼」。
「西東三鬼がもし絵画の道を選んでいたならば、彼はきっとセザンヌ的な物の奥行を求めた画家になっていたに違いない。」
山口誓子氏との師弟の関係を衛生的かつ誇大に保とうとしていたのは、今もって頷けない。」

 初期の三鬼作品こそが三鬼の真骨頂だとそれぞれが思っている。ところが一人だけ大岡信だけが違ったことをいっている。
 この全句集の大岡信「三鬼への小さな花束」と題した解説。
「一般的にいえば、三鬼はやはり新興俳句の驍将として記憶されようとしているのではなかろうか。しかしそれは、私の実感とはずいぶん違う。句そのものの備えている実力からすれば、私には何といっても晩年のものの方がずっと面白い。」

 晩年にたいする両極端な評価に、私は永井荷風を連想する。石川淳は「一箇の老人が死んだ。」で始まる痛烈な「敗荷落日」を書いている。
「晩年の荷風に於て、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなくて、精神の脱落だからである。」
「一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりもない。」

 と見放されている荷風だが、昨夜のNHK教育テレビ「知るを楽しむ」のように、永井荷風は今やその生き方が羨望の的となっている。際立った芸術的成果を成した人は、かくも多様な像を見せるものか。

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