「晩夏」

 昨日引用した佐藤亜紀「異邦の鳥」にはここまで書くかあ、と感嘆する箇所がある。

「それからの二十年の間に、私が愛したもの、完璧だと思い込んだものの多くが失墜した。今ではクリムトなど大した画家とは思わない。ビアズレーは単なる露悪趣味だ。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』の無邪気さには微笑が浮かぶ。ワーグナーは解釈の玩具になり下がった。ワイルドは『真面目が肝心』一作によって記憶されるべき作家だろう。マラルメは悪凝りがすぎるし、リラダンはボンデージ趣味の変態、ユイスマンスはただの下手糞、ボードレールの若々しい不機嫌には、今や、苦笑するしかない。」

 山尾悠子の精巧緻密な小説を堪能した後では、緩い小説を読みたくなる。で、近藤史恵「天使はモップを持って」実業之日本社2003年を読む。身につまされるエピソードの連続で、思わず苦笑。うーん、うまい連作短篇小説だ。心がスッキリ磨かれる。天使といえば、佐藤亜紀「天使」文春文庫を所持しているけど未読。いつか読もうとは思っている。吾妻ひでおやけくそ天使」は読み返してるけど。

 一昨日の毎日新聞夕刊、荒川洋治「水脈」の題は「『シリーズ』の光景」。
「シリーズは、読書に安定感を与える。過去のシリーズを振り返る。」
 一九六○年代から七○年代前半のシリーズが紹介されている中で、臼井吉見責任編集『日本短篇文学全集』全四十八巻筑摩書房、『全集・現代文学の発見』全十六巻学藝書林は、前者は全巻、後者は十一巻が本棚に鎮座している。後者には特に思い入れがある。
埴谷雄高『死霊』、尾崎翠第七官界彷徨』などの名作に、読者はここで出会う。」
 四十年前の私がそうだった。この二作は衝撃的だった。他に稲垣足穂弥勒」もこれで知り、前者では足穂の短篇に出合った。文学世界とはかように広大無辺なのか!とワクワクしたのがこの二シリーズだった。続いて桃源社の「大ロマンの復活」と銘打たれた、小栗虫太郎香山滋国枝史郎らの復活、三一書房から出た『中井英夫作品集』『夢野久作全集』『久生十蘭全集』などなど、めくるめく青春だった。この時代、高度成長経済の光が強ければ強いほど、闇も深まる。荒川洋治はシリーズ紹介の最後に『私のアンソロジー』全七巻(松田道雄編集解説・筑摩書房)をもってくる。このシリーズでは『私のアンソロジー4 反逆』1971 年を当時買っている。帯「編者のことばより」。

「権力は告発されねばならぬ。反逆者が権力を手にしてデモクラットになったとき、格子なき牢獄国家が生まれた。革命家が権力を手にしてコミュニストになったとき、栄光の強制収容所が生まれた。独立の戦士が権力を手にして民族の英雄になったとき、侵略のナショナリズムが生まれた。……二十世紀の最大の逆説は、告発者もまた告発されるにいたったことだ。」

 味戸ケイコさんの「晩夏」一枚を観に、山梨県から電車を乗り継いで若い女性が来館。感謝。