40年

 昨夜のNHKテレビ「その時歴史が動いた」、「わが会社に非あり〜水俣病と向き合った医師の葛藤〜」。を視聴。水俣病発症から1973年の熊本地裁水俣病原告勝訴の決め手となったチッソ元医師の病床での証言までの歳月を追う。40年ほど前の記憶はわずかだけれども、痙攣する猫や患者のブルブル震える体の「気味悪い」映像がいまだに生々しい。40年前1969年は劇的な年だった。東京の大学に現役入学した私は四月に勃発した大学紛争に身を投げ入れていった。そして全共闘主催、ベ平連主催のデモに何度も参加した。機動隊との対峙は毎度のことだったけれども投石はしなかった。衝き動かした情動は「この経済・政治はおかしい」という違和感だった。そんな気持ちの片隅に水俣病の姿もあった。昨夜の放送での「怨」と抜かれた幟旗。「怨歌」藤圭子……。静岡新聞朝刊の一行記事には「藤圭子さんに42万ドル返還へ」。

 中野翠「ムテッポー文学館」文春文庫476頁。

立花隆さんが学生運動を親子関係の側面から見たのはやっぱり正解だった。あんまりフラットな言い方をしたくないが、あれは国民的規模での親子ゲンカだったと思うもの。戦後生まれの私たちが、戦後を生活優先、物質的豊かさ優先で生き抜いて来た両親世代(とくに父親、男たち)に、その思想的倫理的責任を問う、そういう一面も確かにあったと思うもの。」

 1970年8月15日の新聞、記事見出しの「戦後25年」が記憶に鮮やか。25年なんて短いものだ。1969年から40年。それも永くはない。いまだに「この経済・政治はおかしい」という違和感はぬぐえない。それへの私なりの対処・対案としてグラウンドワーク三島とK美術館がある。それは知人女性がブログで書いていた「Think globally, act locally (世界視野で考えて、現場で行動すること)」だと考えている。