撤収

 きょうは展示の木版画を撤収収納。

 福田和也「作家の値うちの使い方」飛鳥新社2000年を再読。

「だとすれば、ここで問い直さねばならないのは、純文学がミステリーよりもなお狭い自己目的にとらえられているのではないか、ということだろう。無論純文学の各作家は、それぞれに『可能性』に向けて書くことで、文壇に登場したのだろう。しかし、いったん作家としての立場が確立される、されたかに見えると、そこから作家であり続けることが『自己目的化』してしまっているのではないか。」70頁

「もしも自らの可能性を追求できなくなったなら、作家であることをやめて身を退くか、エンターテイメント作家として『商品』を真面目につくることに励むべきであろう。」71頁

「一時輝かしい才能の展開を見せたとしても、それがもはや発揮できないのならば、筆を折ればいいだけの話である。別に作家だけが人間の仕事ではないのだから。」71頁

 これは美術家、画家にもいえることだ。安藤信哉、内田公雄氏らは、晩年まで己の絵画の可能性を追求し続けた。晩年の絵画が、彼らの表現の到達点となった。