展示替え/美の玉手箱

 美はその人にとって心地よいものだと思う。昨日取り上げた草間彌生だけど、彼女にとっては、あの限りなく広がってゆく網の目(を制作してゆくこと)が心地よかったのだろう。私には気持ちワリイとしか感じられんが。さほどに美意識、審美眼は、人さまざま。ところで一歩踏み込んで、心地よい、快いと感じる状態をよく考えると、その言葉がかなり多くの意味を含んでいることに気づく。この梅雨時にエアコンから流れてくる乾燥した冷気を心地よいと感じることから、ジェットコースターできゃあきゃあ叫んで「ああ恐かった、でも快感」という心地よさもある。芸術作品から受ける心地よさは、肉体的な快感だけではなく、心的精神的な快感もあり、そのほうがかなりの部分を占める、なんて書くと陳腐になるなあ。あっと息を呑む精神の奥深さが一級の芸術作品にはある、としかいえないかな。玉石混交の作品群から一級品を見い出す・判別できる人こそ、優れた批評家、目利きだ。その息を呑む精神の奥深さを垣間見せる一級品は、歳月を経て見てもやはり同じように、いやさらに深く感動させる。歳月を経て古ぼけて感じるモノは、当然一級品ではない。美的価値観の時代変化にビクともしない作品こそ一級品であり、私の求めてやまないものだ。
 私の場合その作品をどの程度欲しいと思うかで、その作品の美的価値(商品価値ではない)をまず判断する。可能ならば自分のものにしたい、と切望する作品はピカイチの芸術作品だと考えている。これくらいの思い込みがないと、ね。で、味戸ケイコさんは、私の選ぶ味戸さんの絵には傾向がある(偏っている)と仰る。自分はそうとは思わないけれど、自らの審美眼で選ぶゆえ、偏ることは十分ありうる。また当然、後日その判断が間違いだったわ、と気づくことも十分ありうる。そんな場合は審美眼が未熟だったなあ、いけねえと苦笑してすませる。
 美にたいしては、まず謙虚でなければ。そんなことを思いながら展示替えを進める。どの絵をどこへどう展示するか、愉しい悩み。と同時に、これは少なくともに展示に値する作品か、と考え込む。入れたり出したりで一日が過ぎてゆく。ふう、疲れた〜。

 K美術館のキャッチ・コピーを「美の玉手箱」に更新。