展示品をレイアウト

 昨夜、友だちからNHKで井上陽水をやってるよ、教えられ、「SONGS 」を視聴。六十歳を越えても枯れず味わいを深めている。歌の合間に俳優のオダギリジョーの発言。「J−ポップの歌詞はつまないから聴かないが、井上陽水の歌詞は素晴らしいから聴く」といった趣旨の発言。同感、同感。

 太田忠司お気に入りシリーズ、福永武彦「失踪事件」(「加田伶太郎全集」扶桑社文庫2001年収録)を読んだ。ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」と同趣向。「推理は分析力・想像力・論理力に基づくものさ。全く別の方法によってこの地点が出て来るんだが、それが今の歩行距離と一致するんだよ」という探偵役の助教授の言葉は後続の「九マイル」に重なる。太田忠司の好みか。

 福永武彦の著作「別れの歌」の最後の文頭にはこう書かれていると、平野謙が書いている。

《私は一人の芸術家の作品を知るためには、その作品のみがあれば足りる、作者の私生活の面まで詳しく知るには及ばないという主義である》

 同感。芸術家という言葉からふと考えた、工芸家と芸術家の違いについて。工芸家は今ある生活様式・文化の一層の充実と調和を図る。芸術家は、今ある生活様式・文化の調和に窮屈を感じ、別の調和へ挑戦し、別の調和を創造する、といえようか。工芸家と芸術家に明確な区別はつかない。工芸品も芸術品も、出来た時点で作った作者の意図を超えて一人歩きする。工芸品、芸術品に類別されず、その時代その時代の美意識・価値観等の変遷に応じて相互に往来する。ある時代の工芸品が芸術品に変貌したり、ある時代の芸術品が工芸品と見なされたり、と。工芸品から芸術品への格上げ(?)の典型は、朝鮮雑器が国宝「井戸茶碗」に昇格した例だ。そして思う。工芸品は芸術品より格下か、と。工芸品は同時代の美意識の枠に収まる=愛玩。芸術品は同時代の美意識の枠を超えてゆく=鑑賞。より高く、より深く、より遠くへ。よって、芸術品は同時代の美意識には受け入れられず、次の時代に受け入れられることがよくある。井上陽水の歌は同時代に受け入れられ、世代を超えて受け入れられている。これは工芸品にして芸術品か。それとも、そもそも工芸と芸術に分類すること自体に無理があるのか。すなわち、優れた作品、つまらぬ作品という区別があるだけ、なのか。それにしても、忘れられた「芸術家・芸術作品」のなんと多いことか。古い雑誌を開けば、ひどい作品が芸術品として大々的に扱われ、芸術家として優遇されている。そんな昔の人気作家、作品て……今何処。

 午後、展示品をレイアウト。よしよし。二階の北一明氏の作品にわかりやすい説明文を追加。