十年で四倍

 昨日に続き「現代日本文学大系 93 現代詩集」筑摩書房篠田一士(はじめ)の解説から。吉岡実「島」について

《「島」という題名を日常的に受け取って、この作品を何度読みかえしてみても、読者はなにものも喚起されないだろう。》

 と記し、ひとつの読解を示して彼は書く。

《それにしても、日常的な意味を奪われ、無言のまま、不気味な形姿と色を暗示する、これらの言語のマッスは、なんのために存在するのだろうか。それをあきらかにするには、テクストの細部を順をたどってゆかねばならぬ。細部のひとつ、ひとつがなにを唱い、なにをえがくかを知るためではない。ひとつの細部ともうひとつの細部とがどういう風に関り合うか、そしてその関り合いが作品全体をどういう風に構成してゆくか、その図柄のおおよその見当をつけるというほどのことにすぎない。》

《このように、詩人は言葉を、ひとつひとつ、えらびながら、同時に、その言葉のもつ日常的な意味を剥奪し、ちょうどという比喩の但し書きはまったく必要とせず、言葉を絵具の色や楽音と同じようにも用いているのである。》

《「島」と「鳥」、このふたつのイデオグラムの交叉、乖離の生々しさ、そしてその間に飛び散るイデーのめまぐるしい火花を経験したあとでは、やせた胎内から、どんな声と血をしぼりだそうと、その声の悲愴も、その血の鮮烈さも、すべて、ふたつのイデオグラムのつくりなす形、そして、構図のなかでしか生きないのである。いや、それでこそ、男の声がぼくの耳をうち、血の流れがぼくの目をおどろかす。》

 詩に《男はやせた胎内から 少しの声と血をしぼりだす》がある。篠田が言っていることは、殆どそのまま絵画にもいえると思う。日常の意味がベッタリついただけの絵画が、いまだにデカイ顔をして闊歩しているこの日本。 安藤信哉の絵画の素晴らしさよ。

 「現代日本文学大系」筑摩書房の1970年に出た「35 有島武郎集」初版の値段は720円、1973年に出た「97 現代評論集」初版は920円そして1979年に出た「78 中村光夫 臼井吉見 唐木順三 竹内好集」6刷は2900円。十年で四倍に高騰。おどろいた。高騰で連想。ドバイ──沸騰都市から蒸発都市へ? たしかに沸騰すれば蒸発するわ。