詩的大往生

 昨日引用した短歌の篠田一士の鑑賞。

  黒き檜(ひ)の沈静にして現(うつ)しけき、花をさまりて後(のち)にこそ観め

≪光と影のめくるめくような交叉、それに音楽の緩急のめざましさとが両々相まち、その間おのずから、静動両面の心のありかが読むものの裡に躍如とうかびあがってくるさまをなんと形容すればいいのだろうか。≫

  秋の日の白光(びゃくわう)にしも我が澄みて思(おもひ)ふかきは為(な)すなきごとし

≪さきにあげた「落葉松」の詩篇につらなる詩情を歌っているが、ここにある言葉のかがやき、そして同時に、その豊かな重みは到底「落葉松」の及ぶところではない。詩的大往生というものがあるとすれば、まさしくこうした作品を指すはずである。≫

 このような豪快な鑑賞を読むと、作品の鑑賞は、その人の度量というか人生経験の幅と深さというか、お勉強以外の修練がモノをいう気がしてくる。美術作品の価値判断には「知識・経験・直観」が必要だけれど、これは文学作品にもいえる。篠田は続ける。

≪白秋の詩業が達成した言葉の響きの世界は今日のぼくたちに無限の富を提供してくれるだろう。現に、白秋の挑戦に立派に応えた現代詩の傑作を、少なくともひとつだけ、ぼくは知っている。吉田一穂(いっすい)氏の「白鳥」十五章だ。≫

 この付録の入っている「日本の詩歌 第9巻 北原白秋中央公論社1968年の解説「詩人の肖像」は吉田一穂。明日へ続く。

 早坂類さんが昨日のブログで味戸ケイコさんの新作を話題にしている。スパンアートギャラリーで明日までの「アリス百花幻想」に味戸さんが出品しているけど、これも行けない。今年は東京へ行かず仕舞いになりそ。

 大江健三郎万延元年のフットボール講談社1967年初刊を四十年ぶりに再読。