昨日ふれた高木彬光「幽霊西へ行く」角川文庫1986年。表題作に≪英国の詩人はするどいことをいっている。≫と以下の文が紹介されている。
≪人の一生が偉大であるためには、その最後が悲劇で終わらねばならない、と。≫
最近、入水自殺した太宰治が人気を盛り返していると聞く。ならば同じ小説家の三島由紀夫は? 昨日ふれた夏石番矢「天才のポエジー」邑書林1993年では、三島由紀夫と俳句の加藤郁乎(いくや)を同じ俎上にあげている。
≪しかしながら、加藤郁乎の空虚さには、江戸という退路があった。これに対して、三島由紀夫の退路は、ご存知のとおり、他界しかなかった。いや、それもなかったかもしれない。≫「加藤郁乎論」105頁
≪もしも、問題を、加藤郁乎的な空虚さをいかに超克するかという課題に置き換えるならば、問題はさらに三島由紀夫的な空洞をいかに超克するかという課題へ拡大しなければならないだろう。≫同106頁
≪空虚な乱痴気騒ぎも、その裏にはびこる日本的な文化管理も、文化的ナルシシズムも、もうたくさんだ。ことばのビッグバンを、一人一人の日本人が開始するときがきている。≫同106頁
と夏石番矢は大言壮語で結んでいるが、私は苦笑。1990年の初出時の題は「うたげのあとのよだれ」。副題が「郁乎病へのカルテ」。学生時代、加藤郁乎氏にくっついて新宿西口を歩いた自分にとっては、夏石の言い方の裏側に、新宿文化の黄金時代に遅れてきた青年の悔しさをふっと感じてしまう。穿ち過ぎかもしれないが。加藤郁乎の作品を空虚な呪文、超克すべき空虚とみなしているが、その空虚こそが、作品の命。これは、その現場を生きたものにしか共感できない空虚かもしれない。空虚であって、空疎ではい。空疎は、お呼びでない。空洞も。
それはさておき。湯浅猛展、連日引きも切らず来館者。きょうも大忙し。賑やかなことはいいことだ。