やっと晴天

 やっと冬らしい晴天。暦では雨水だけど。
 堀江敏幸「おぱらばん」新潮文庫2009年初版を読んだ。≪おぱらばん≫とはフランス語の≪AUPARAVANT≫のこと。手元の辞書には≪その前に、前もって、以前に≫とある。英語では≪BEFORE≫。このエッセイ集の初出は「ユリイカ」とあるので、昨日ふれた「ユリイカ」を見ると、たしかにあった。この号では「床屋嫌いのパンセ」。読まなかったのは、このページだけ活字がやけに小さいから。保険契約書の免責事項の文字ほどに小さい。こんな小さい字を四ページも読まないわあ。いや、読んだ人、いるのかしら。私と相性のいい文章だ。誰とは言わないが、臭みが鼻につくエッセイがある。ここにはそんな臭みがない。気持ちよく読める。ある鍵言葉でつながってゆく文章。それは先に読んだ「雪沼とその周辺」でも使われた手法だ。彼の特徴なのだろう。内容は、彼がパリに滞在していたときに出会った個性ある人たちとの出来事や感興が淡々と、あるときは怒りを抑えて綴られている。五木寛之のエッセイ「風に吹かれて」と比較してみると面白いかも。「貯水池のステンドグラス」から。ゲラシム・リュカという1913年ブカレスト生まれ、1994年パリで死去した詩人について。

≪リュカの詩の、日本語どころか仏語にすら正確には転換できない言語遊戯と、交差配列的とも評される際限のない類語反復を繰り広げていく詩行の背後の深い絶望に、これまで親近の念を抱いたことは一度もなかった。単語の意味をこなごなにし、意味の破壊を越えた地平で新しい声を創出する軋みの作風にも、それほど強い関心は持っていなかった。私の視線を修正してくれたのは、リュカの自死だったのである。≫110頁

≪なにものにも与せず、徒党を組まず、いわゆる詩壇から離れて活動していたなどという陳腐な形容をつきぬけた、強靭かつ不安定な精神力を武器にした彼の詩をたどっていると、じぶんのなかのもうひとりのじぶんと刺し違える瞬間をひたすら待ちつづけているような、生臭い衝迫に駆られて混乱することがある。≫110頁

 彼の漢字とひらがなの使い分けに興味を覚える。「自分の中のもう一人の自分と刺し違える」と漢字にしてしまうと、ふつうの浅い印象になる。

 昨夕、帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。平松洋子「テーブルの上の『小さな贅沢』」三笠書房知的生き方文庫2005 年初版、スタンリイ・エリン「最後の一壜」ハヤカワ・ミステリ2005年2刷帯付、計176円。まだ一冊88円セール中。前者は友だちの探求本。

 きょうのネット拾いもの。

≪小学生の頃の夏休みの作文が出てきた。

 「お母さんは鯛を釣りました。お父さんは海老を釣りました。私は秋刀魚を釣りました。…」

 とか書いてあった… 。

 死にたい。≫