新聞書評

 ウェブサイト「出版・読書メモランダム」、1日の記事から。

≪フラット化しているのは電子書籍報道ばかりでなく、新聞書評も同様である。6月6日の新聞書評を見ていたら、『読売新聞』『日本経済新聞』『中日新聞』(『東京新聞』)の写真入り著者インタビューの欄に、いずれも集英社から『母―オモニ』を上梓した姜尚中が出ていた。≫

 美術界のみならず出版会もご同様か。相憐れむわけにはゆかぬ。

 椹木野衣(さわらぎ・のい)『反アート入門』幻冬舎、253頁以下で矢代幸雄水墨画岩波新書1969年初刊に言及しながら論を進めているので、その矢代幸雄水墨画』を本棚から取り出し読んだ。四十年前には古風な文体に辟易して投げ出したけど、今回は興味深く読了。松岡正剛の「千夜千冊 607 夜」でも取り上げられているこの本、やや読みにくいが、視野が悠遠で、読んで損はない。

≪山中に逍遥し静思する者は、時に突然眼が開けたような気がして、おやと思うことがある。見廻すと木がおのおの生きている。おのおのがその性格と境遇とに従って、行動し表情していると感ずることがある。われわれの近代意識の底に眠りかけた遠い昔の汎神的なる原始心理が急に甦ったのである。かくのごとき原始心の直感こそ、知識や理論に煩わされぬ本能的認識をもって、物象の本質を正解し、ただちに芸術を養う源泉になるのである。この原始心は、東洋においてはいつまでも消えずに残り、東洋文化の諸相のうちに種々興味ある変化ある特色を呈するのであるが、松において君子の徳の風を認む、というのも、単に道学先生の一片の抽象的教訓に非ずして、その奥に、雑樹の間に立つ松の威容と品格とに打たれたる樹木崇拝的の原始的認識と感激とを含んでいない限りではない。松林に静思沈思してかくのごとき原始的直感に到達した者が、それでこそ松の真相を知り、真相を知ったが故に、はじめて松が画けるのかも知れない。≫185頁

 なお、松岡正剛は、「千夜千冊」、75夜 岡倉天心茶の本』ではこんなことを記してる。

≪天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかったのだろう。これはたとえば、あれほどルネサンスに精通していた第607夜矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。≫

 ネットの拾いもの。

≪……と学会は一心同体のはず……。

 「と学会」です。≫