叙述しない表現

 富士山、頂上だけちょこっと雪景色。

 昨日話題の「秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし」は、『日本の詩歌 19』中央公論社1969年初版では、口絵写真頁や「山口誓子」の章に

≪ 夏草に汽罐車の車輪来て止る ≫

 があるが、「秋夜遭ふ」は収録されていない。平井照敏・編『現代の俳句』講談社学術文庫1993年初版にも「夏草に」は収録されているが、「秋夜遭ふ」は収録されていない。これほどの名句が見落とされているとは。小西甚一の炯眼を評価すべきだろう。

 昨日引用した「叙述しない表現」について。

≪俳句表現は、あくまで「叙述しない」世界なのである。叙述によっては表現できない世界、叙述以上の世界を表現してゆくのが俳句なのである。五・七・五の定型は、その「叙述」を切断するために存在する。≫289頁

 正鵠を射る、とはこのことだろう。簡潔にして的確な言葉だ。

≪ 秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし ≫

 に、私は北一明氏の茶碗を連想する。北一明氏は、まさしく独走する独創の孤人だった。後に続く者はない。

 午後、明日からのトルコの手作り展の商品搬入、飾り付け。