自殺案内者

 昨日ふれた石上玄一郎『自殺案内者』(1951年)を再読。ずいぶん昔に読んだけれど、身投げ心中の場面などけっこう覚えていた。なかなかの作品だ。戦地引揚者の元兵士、今は敗戦後の伊豆半島沖の火山島で旅館の番頭をしながら、入水自殺、投身心中、闘鶏、戦場の記憶そして癩病者の生を突き放して観察(窃視)している。

≪彼等にあっては生も模倣であったように、その死もまた模倣なのだ。あたかも特定の彼等自身など最初から全く存在しなかっったように……彼等の多くは他人の言葉を喋って育ち、他人の思想で考え、他人の作った仕掛けの上で動きまわり、そして他人の死を死んで行く。時には、遺書すら他人の文句を抜き書きして……。≫

≪ものを見るという事は、単なる視覚による一過性の作用ではない。何ものかが私の中に入り込んで来て、それとなく私自身を変える事だ。≫

≪ひき込むような孤独の感情が私を捉えた。≫

≪海は荒れている。明け方のひととき、煙のように沸き上がってくる緻密な闇の向うに、断崖へ向かって奔騰し続ける海の間断ない響が聞こえる。昨日まで斑点のある油のように睡っていた海は、海そのものの意志により、その深みから揺り動かされ、全く別個な生物に変りつつある。≫

 この文章に続く結びはとても印象深い。それにしても、闘鶏をする男の語り。

≪世の中って奴あどの道、金権か強権かさ、どんな世の中になっても、この権力をもった悪党どもの取り巻きには、権勢を傘に着た狐や狸どもがのさばっているのはいつの時代だって同じことさ。≫

≪民衆の福祉だの、低物価政策だのともっともらしいことを一枚看板にしておきながら、政権にありついた途端に口をぬぐって知らん顔を極め込む大政党≫

 いつの話だ。