富士山の日らしい

 26日(土)臨時休館します。きょうは富士山の日らしい。

 照屋眞理子歌集『夢の岸』書肆季節社1991年を読んだ。鎌倉在住の人。

《 < 時の流れ(レール・デュ・タン) >終(つひ)の一滴馨りたち掌上軽し一壜の虚無 》

《 やすやすと人を忘れて歳月の梢に咲かす花のかずかず  》

《 ヨカナーンの首もなければ古伊万里の皿はしづかに秋風を盛る 》

《 夢にさへ雨降る夜のアスファルト夢をこぼれて鳴る千の鈴 》

《 あなうらにかすかに砂は残りたり夢に銀河を流れるあした 》

《 わが目よりやや高き枝にかかる月死後あらば今日をしのぶよすが 》

《 唄ひゐしうたも忘れて百年の後は夕日に咲く曼珠沙華 》

《 目を閉じて夜毎の夢もはかなしと見開きて見る千年の夢 》

 最初の二十頁たらずにこれだけの選出歌。歌集最後の歌、

《 季節は一つの比喩に過ぎないあらかじめ失われたるまぶしさのその 》

 に至る百頁余に秀歌が犇いている。恐ろしや〜。冒頭の歌に月刊『短歌』1983年三月号塚本邦雄撰「公募短歌館」、角川書店で出合ったときは心が震えた。塚本邦雄は『夢の岸』解題でこの歌との出合いを書いている。

《未知未見の傑作と逅ふべく、孜々として発掘作業にいそしんでゐた私は、あたかも啓示のごとく、一首の傑作を得た。》

 その啓示のごとき一首は、活字となって私の現前に出現した。『短歌』なんぞ買ったことのなかった私は、この一首のために迷わず購入した。「一壜の虚無」。中井英夫『虚無への供物』へのオマージュと読み替えた私は、中井英夫氏へ手紙を出し、その発見を伝えた。当然、照屋眞理子さんにも手紙を出した。女史からは今年も年賀状を戴いているが、未だに電話で話したこともない。