解放・追放

 昨日購入の獅子文六『自由学校』角川文庫1963年3刷の表紙は、宮田重雄 の絵。いかにも戦後という絵だ。これに惹かれて買ったようなもの。『獅子文六全集』1968年付録月報2、飯沢匡(ただす)「獅子文学の新しさ」から。

《 このごろ芸術が専門化する傾向が強い。だから一般の人にはさっぱり判らないという芸術が蔓(はびこ)って居り、また悪いことには芸術家も、いつの間にか判らないことが芸術の特質のように考え始め、自分でも判らないものを制作したりする。気のいい一般人は判らないのは恥と思って判ったふりをするというような悪循環が、ますます難解、不可解の芸術を横行させているのである。》

《 だが、これは日本だけのことで、大体海外の芸術の導入者、紹介者の無責任、と本家本元の社会の構造と日本の差異が原因で、こんな馬鹿々々しいことが起ったのではないかと思われる。》

 大江健三郎『壊れものとしての人間』1970年より。

《 じつのところ、ぼくは森の奥の谷間に育った人間として、解放されることが恐しい体験なのだということを、いわば体験的に知っている。しばしば解放されるとは追放されることであり、共同体(コミュニティ)から最終的な引導をわたされることだと実感してきたのである。》

 四十年以上前に言われていることが、今も通用するとは、日本の社会の本質はなにも変わってはいない、ということ。芸術家村、原子力村、どこも変わらず村社会か。村に順応していれば安心安全。異見の者は村外追放。

 ネットの拾いもの。選挙、今なら。

《 ×皆さんのために身を粉にして頑張ります!!

  ○皆さんのために放射能にあたりながら頑張ります!!》