非現実的な夢想家・続き

 村上春樹「核への『ノー』を──非現実的な夢想家として」下(16日)より。

《 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み。原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。》

《 核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。》

《 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。》

《 我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。》

《 我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。》

 翌日17日の朝刊コラム「発信箱」で論説室の福本容子は「原発と夢とお金」という題で書いている。

《 金勘定の話。「非現実的な夢想家」になり原発を排除していこうと呼びかけた村上春樹さん、夢のない卑しい現実主義者でごめんなさい。でも効率を「災厄の犬」と片づけるのは簡単だけど、では私たちは支払える範囲を超えて生き続けられますか?》

 云々という冷笑的な文章を投げかけている。論旨を矮小化(懐かしい言い方だ)し、提起された課題をすり替えている。いやだなあ、と思った。そこへ17日夕刊の「特集ワイド」は哲学者高橋哲也へのインタビュー。見出しは『「犠牲の仕組み」転換を』。

《 原発事故に照らし合わせれば、歴代政権や電力会社の幹部らがその対象ということになる。
  「彼らが真っ先に被ばくの恐れがある現場に行かなければならないことになっていたら、それだけ自らの問題として真剣にとらえていたら……果たして偽りを重ね、時には隠蔽しながら原発を推進できたでしょうか」》

《「私の言葉で言えば、原発という『犠牲のシステム』は終らせたい。でも、これを冷温停止させ、廃炉にすること自体が大変な難問です。他方、まだ原発推進を唱える人たちがいる。彼らには、『誰が犠牲になるのか』という問題に答える義務があるのではないでしょうか」》

 朝九時前にはもうJR東海のさわやかウォーキングの参加者が自宅前を歩いている。早っ。

 ブックオフ長泉店で三冊。大倉崇裕『白戸修の狼狽』双葉社2010年初版帯付、北杜夫『さびしい姫君』新潮社1977年初版帯付、畠中恵『アコギなのかリッパなのか』実業之日本社2008年初版、計315円。

 ネットの拾いもの。

《 我輩は神である。

  名前はまだない。》