木曜の男

 きょうは水曜だけど、G・K・チェスタトン『木曜の男』創元推理文庫1986年18版を読んだ。1908年の作品。103年前ではなく、最近書かれたといっても通用する現代性がある。扉の宣伝文から。

《 前半の神秘と後半のスピードが巧みにマッチして、謎はさらに奥深い謎へと導いていく。悪夢のような、白昼夢のような雰囲気の中で読者もまた息苦しいほどの奇怪な体験を強いられる強烈な迫力は無類である。》

 無政府主義者たちの秘密結社へ潜入した主人公の運命やいかに。奇想小説というべきものだろう。結末近く、登場人物それぞれの発言に翻弄された。キリスト教の問答のような。これには注釈書が必要だ。

《「われわれがくじかれたことがないなどというのは嘘だ。われわれは粉々にくじかれた。われわれがこの椅子から降りたことがないなどというのは嘘だ。われわれは地獄に降りて行った。われわれはこの男がわれわれを幸福だといいに来たその瞬間にさえも、忘れることができない苦しみを訴えていた。僕はこの男の言葉を否定する。われわれは幸福ではなかった。ぼくはこの男が告発した法のどの偉大な庇護者についいてもそのことがいえる。すくなくとも、──」》

 中島河太郎の解説から。

《 最後の意外な結末にいたるまで、チェスタトン一流の論法にひきずられて、真相はなかなかつかめない。彼の思想に裏打ちされた行文に読者はすっかり瞞着されるので、読後いささか呆然となるが、これこそチェスタトン推理小説の真髄を把握していることを示すものであり、同時に散文的な描写をもってすれば、たちまち正体をさらけ出してしまいそうなプロットを、いかにして読者をあざむくかの賭に彼の勝ったことを示すものでもある。》

 話題は変わって。あるブログの一文。

《 分かりやすくなければ大衆は支持しない。大衆が支持しなければメジャーにはならない。》

 に、展示中の安藤信哉の絵を連想。高尚すぎて一般はわからない、とよく言われる。晩年の絵は高尚すぎるいうよりも、時代のはるか先を行っていた、と今は思う。だから今世紀になって、やっとその魅力に少数が気づくようになった。

 ネットの拾いもの。

《 百万ドルの夜景というとすごいけど、八千万円の夜景というと……。》