壊れものとしての人間

 大江健三郎の長編評論『壊れものとしての人間』講談社1970年初版を読んだ。四十年前は手に負えなかったけど、今回は最後まで読み通せた。やれやれ。ただ、読了はしたけど、果たしてどこまで理解できたか。半分もわからなかったというのが本当のところだろう。以前もそうだったが、洞窟の暗闇の中をあっちこっち鼻づらを引きずり回すような文体に手こずった。

《 ぼくは暴力をくわえられる肉体としての意識をはっきり確認するとき、そこに根源的な、もうひとつ別の秩序への人間的飛躍がおこなわれるのであるにちがいない、という信仰をいだいて二十世紀後半の小説の世界に入ってゆき、数かずの証拠物件をかかえこんで、活字のむこうの時間から戻ってきた。》「核時代の暴君殺し」

《 ひとりの作家としてのぼく自身も、自分の意識を、あたかも多元的な性格をそなえた、複雑きわまる構造体であるかのように押しひろげる試み、あるいはそれを一条の光線のごとくにも限定してゆく試みによって揺さぶり、確認し、また揺さぶりながら、結局は、この核時代の黙示録につらなりうる場所に出てゆかねばならないのであろう。》「作家にとって社会とはなにか?」

《 しかし、核専制(ニュークレア)王朝のごくわずかの専制者たちをのぞけば、あらゆる人類が、その内部の暗闇に、核戦争による黙示録的な悲惨の状況への予感の具体的な核(コア)をそなえざるをえないこの時代において、ここにのべたような小さな社会内存在としての作家の役割が、もしかしたら決して無意味でも無力でもなく、しかも様ざまな核体制の対峙する複雑な今日の国際政治前線のすべての側に共通につうじる意味あいを持って、人間に働きかけるところの時代こそが、ほかならぬ現代であるのではないだろうか? 》「作家にとって社会とはなにか?」

《 ぼくは、自分が活字のむこうの暗闇との相関において現実世界と架空の世界をどのように生き延びてきたかを語ろうとする、この文章を書きつづけてきて、いまその終わりちかくに到りながら、それこそ暗闇のなかに円型水槽を回遊しつづける、整然たる絶望の旅のうちなる鰯どものような具合に、出口のない堂どうめぐりをしはじめているのに気づいた。ぼくは森の奥の谷間の出発点から、この一連の文章を書きはじめた以上、架空のそれであれ、不確かな予定のそれであれ、ともかくあるひとつの到達点にむかって上昇してゆく、あるいは下降してゆく方向づけと共に文章を終らねばならず、ぼく自身それを望んでいるのでもある。》「皇帝よ、あなたに想像力が欠けるならば、もはやいうことはありません」

 こんな文章だもの、多分打ち違いがあるでしょう。と、断っておく。長編小説『万延元年のフットボール』1967年を受けての評論という気がした。それ以降の小説との蝶番のような。

 学術論文「走行中のブラジャー着用時の乳房振動とずれの特性」日本家政学会誌の紹介を読む。世界が開かれる。

 それにしても。農薬漬けの野菜を摂るか、放射能セシウム汚染の野菜を摂るか。究極の選択。