『海市』

 昨日再読を終えた福永武彦『海市(かいし)』新潮社1970年10刷、以前には「久闊を叙す」という言い回しを覚えた。それはさておき。まずは印象に残った一節を。

《 風景は畢竟は人間的なものだ、と私は考えた。自然はそれのみでは美しくも醜くもない、それはただそこに在るというだけだ。人間の眼が見るからこそ風景は風景としての意味を持ち始める。そして人間の眼は各人各様に見る。同じ自然は人により異なった風景として認識され、そこに各人の感情を吸収する。》14頁

 セザンヌ描くサン・ヴィクトワール山を想起。実際の山のなんとありふれたものか。

《 彼女には一種の人を呪縛に掛けるような魅力があった。岬にいた時と今とのあまりにも明らかな違い、無邪気そうに見えてその実軽く私をあしらっているような口振り、陽気で茶目な中に隠された一抹の翳(かげ)。》27頁

《 美というものは劇的なもので、その瞬間に完全に魂を占領して、一瞬のうちに人を燃え上がらせるんです。》48頁

《 人は決して未来を見ることは出来ないのだ、と私は考えていた。こういう結果になることを、昔、誰が想像しただろうか。私は藝術と市民生活とが立派に両立することを、その頃、信じて疑わなかった。》105頁

《 彼女は何をしても魅力的だ、天使だってこんなに可愛らしくは食べられないだろう、》199頁

《 「今は娼婦じゃなくてあなたの奴隷になったみたい。」

  「可愛い奴隷だ。ずうっと僕の奴隷にしておきたいな。」

  「駄目よ。今だけよ。」》310頁

《 日本語てのは面白いな。不自由の中に自由があるんだ。》338頁

《 「考えてみると、あたしたち一緒に愛し合っていたのじゃなかったんです。あたしたちは別々に愛していたんです── あなたはあなたのやりかたで、あたしはあたしのやりかたで。そういうふうにしか、あたしたちは愛せなかったんだわ。」》 397頁

 明日へ続く。