味戸ケイコ新聞さし絵展初日

 明日6日(金)は臨時休館します。

 世の中、立派な絵があふれている。一般的に言って、立派な絵とは第一にデカイ絵。油彩画だったら、絵具がこれでもか、と盛り上がっているような。日本画だったら、金銀が多用されているような。そしてどちらも豪華な装飾が施された額を誂えている。一人ではとうてい持ち運べない。二人でもやっと。立派な絵は美術館の団体展でよく見られる。

 立派な絵が幅を利かせる時代は終った、と感じる。いや、終りつつある。既に時代の潮目は変わった。味戸さんの110点の小さな絵(110mm×155mm)を見て確信する。この掌に乗る小さな絵は、あたかも時代を映す手鏡のよう。その風景画には斬新な情調が潜んでいる。情緒ではなく情調。それは既成の諧調を踏み外している。と、一見思えるが、じつはそこに今までにない情調が垣間見える。立派な絵が描き込んできた情調を、この小さな絵があっさりと越えて、それまでにない多分二十一世紀の最先端の情調を描いている。尖端だから、絵も小さい(違うか)。

 その風景の情調は、二十世紀前半の川瀬巴水を通り抜けて十九世紀前半の安藤広重にまで遡るものかも。温故知新。二十一世紀の絵画は、十九世紀半ば、印象派以前の絵画にまで先祖還りをして、そこからあらたな地平を見出す、と予感しているが、その実例を味戸さんの絵に見た。

 先月の白砂勝敏氏の、誰も見たことのない木の椅子に続いて、今回は味戸ケイコさんの、誰も見たことのない絵画。そこまで深く読み込んで見てくれる人が何人かいれば(……しかし、私の思い過ごし、勘違いということもある)。なにはともあれ、絵画は両手に負えない「立派」から片手に持てる「愛着」へと大転換してゆくのではないかな。

 ポプラ社から花束。去年十月に舟崎克彦・文/味戸ケイコ・絵『ここにいる』がポプラ社から出たからだろう。最初の来館者は、時折来られる絵画コレクター。数の多さに仰天される。まあ、110点+常設だから。