手探りで創る共感美

 先だってのこと。知人画家が、白砂勝敏氏の木彫椅子を批評し、その後、椅子の本から推薦する三つの画像を送ってきた。幹をざっくり削って作られた三つの椅子。昨夕白砂夫妻が来館されたので、その画像をお見せして、これでは、ねえ、と私の感想を述べたが、白砂氏の指摘で英語の人名に気づいた。 David Nash 。デイヴィッド・ナッシュの作品は1985年に東京青山の草月会館の個展で見ている。その時のパンフレットから彼の言葉。

《 未形態の概念は形を求める。概念に動機づけられて、存在(生命エネルギー)が行動(創造的活動)を開始する。その結果を熟考することによって、概念の理解がもたらされる。すなわち、理解とは「存在と行動」のあとからやってくる。》

 勅使河原宏が書いている。

《 植物の原形がもっていた美しさ・面白さを殺さないでおきながら、一方では明確に自分の理念や個性を盛り込んだ彫刻に作りあげているのです。》

 デイヴィッド・ナッシュの作品は、そのとおりだと思う。勅使河原宏は続けて書いている。

《 そのように、作品としては意思的な方向を持ちながら、ナッシュの制作は大変柔軟な仕方で進められているようです。》

 会場で私もその大変柔軟な仕方に感心した記憶がある。彼の作品と白砂勝敏氏の椅子を較べれば、白砂氏の木彫椅子には、他の人にはない特徴──樹幹に寄り添い、手探りで創る共感美とでもいうべき個性がある。それは《 自分の理念や個性を盛り込んだ彫刻 》にはない、樹幹への無私の受身の姿勢によってのみ生まれるものであろう。樹幹から生まれた椅子は、座る人を何気なく受け入れる。座った人は、さりげない開放感に包まれ、手で撫ぜてその木肌のゆるやかにすべる感触を楽しみ、その温かみを受け取る。

 端的に言えば、デイヴィッド・ナッシュは、視て、触って、作る。白砂勝敏氏は、診て、触れて、作る。

 ネットの拾いもの。

《 「脳は使うと伸びるよ。

   適度に運動してね。

   脳の使い方は図書館の本で学んでね。」

  「寿老人みたいになるのか。嫌だ。」

 笑っちゃった事故。

《 阪神高速「大きな豚が歩いている」渋滞10キロ 》 記事