昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。五木寛之『新・風に吹かれて』講談社2006年初版帯付、高橋睦郎『読みなおし日本文学史』岩波新書1998年初版、計210円。
雨なのでバス。味戸ケイコさんの来館予定が一週間遅れる。27日(金)を目処に来たいとファクスが届く。
中沢新一『はじまりのレーニン』岩波現代文庫2008年3刷を読了。1994年に出た元版に一章増補されている。中沢新一の本は初めてだけれど、じつに刺戟的。啓蒙、蒙を啓かされた感じ。レーニンの生き方と思想を探りながら、視線ははるか古代ギリシャのはじまりの哲学まで及ぶ。マルクス、ヘーゲルも当然話題に挙がるが、その扱いは、なんというか専門学者から見れば、イチャモンをつけたくなるような。唯物論も観念論も門外漢の私でさえ、そんな印象を覚えるのだから、1994年にこの本が出た時、《 毀誉褒貶にさらされることになったのも無理からぬこと 》だ。そんな嵐をつゆ知らず、今読んで正解。しかし、私はどれだけ理解できただろうか。唯物論、観念論をまともに齧ったことのない私には、この論の正当な判断は無理。だから、以下に興味を引かれた箇所を引用するのみ。
《 これらの文章を読みながら、レーニンは舌を巻いていたのだ。思考のこの躍動感はなんだ。かぎりなく抽象的な言葉をつかって思考を表現しているのに、ヘーゲルの手にかかると、そのドライな抽象語が、まるで生き物のように動きだすのだ。それは、ことばが、存在の見えない奥底でおこっている事態を、正確に反映しているからだ。》「第3章 ヘーゲルの再発見」
《 哲学者たちは、同じ客観の運動を、ことばによる思索の場にうつしかえることによって、形而上学を開始させる。ところが、ことばというものは、客観の運動をつかみとることができると同時に(理解ということばは、もともと握りつかむ、という意味をもっている)、その運動をことばのなかで静止にむかわせようとする傾向をもつ。そこで、運動の静止をつきくずしていくために、弁証法がつくられたのだ。》「第4章 はじまりの弁証法」
《 プラトン以後の哲学は、はじまりの哲学者たちの存在思想がもっていた、底なしの「暗さ」を忘却することによって、がっしりとして堅固なその存在論の大神殿をつくりあげることができた。》「第4章 はじまりの弁証法」
《 私の考えでは、レーニンは、「素朴」なヘラクレイトスの弁証法の背後に、ヘーゲル的な「精神」によってはせきとめることのできない、ある別種の運動を感知していたのだ。はじまりの哲学者たちのもとでは、素朴さは深遠であることの別表現であり、近代の哲学が誇る体系の複雑や巧妙や堅固さなどは、その深遠の忘却の上につくられた、軽薄の神殿にすぎないのではないか。》「第4章 はじまりの弁証法」
《 カントもまた、「物自体」のなかには踏み込んでいかないで、それを抽象的なもののままに、放置した。しかし、ヘーゲルの考える論理学とは、いっさいの形式論理学にさからって、まず生命そのものの論理をとらえるものでなければならなかった。》「第5章 精霊による資本論」
以下、明日へ続く。
ネットの拾いもの。
《 突っ込みどころがありすぎて突っ込むのがめんどくさくなる
という意味で反論の余地もない。 》