目覚まし時計が鳴る前に目覚めると、鳴るまでぐずぐずと待っているけど、鳴ると眠くなって起きたくなくなる。なぜだろう。今朝も小雨。山はまだらに雪模様。
今回展示している味戸ケイコさんの110点の絵、旧作と勘違いする方が多い。新作と聞くと、へえ、と驚かれる。はあ。今回は風景画が見所。絵を描いている二人の女性と私の三人が最も興味を惹かれる絵が一致。日本のどこにもある山間の風景画だけれども、違う。この違いの意味をずっと考えている。
《 マルクスとレーニンの「唯物論」が、ヘーゲルのかなたに切り開こうとしていたものとは、「生命のようなもの」の「底」を破って、そこから生命そのものにたどりついていく、未知の思想の運動を発芽させることだった。概念には、「底」がある。価値にも「底」があり、商品社会のフェティシズムは、そのことを見えなくさせる。商品社会は、生命そのものを隠す社会なのだ。》「第5章 精霊による資本論」
《 共産主義とは、そうしたもろもろの「底」をつき破るための思想ではないのか。概念の「底」、価値の「底」を突き破って、底なしである生命の運動が出現する。》「第5章 精霊による資本論」
《 マルクス主義には、三つの源泉がある、といわれている。フランス唯物論、ドイツ観念論、そしてイギリス経済学だ。だが、レーニン主義の三つの源泉は、それとはちがう。古代唯物論、グノーシス主義、そして東方的三位一体論が、その三つである。》「第6章 グノーシスとしての党」
《 唯物論とは、文化によってあらかじめ表象の系からはずされ、排除されているために、人々の意識から隠され、見えないもの、記憶されないものとなってしまったモノ(これこそがモノ自体ではないか)の立ち戻りと回帰をめざした、ひとつの反抗(revolt)の形態なのだ。そのときどきの社会において支配的な表象の糸によって、時間の外へ追いやられたもののすべて、もっと言うといっさいの「はじまり」の状態にあったものの立ち戻りをめざした運動が、唯物論と呼ばれるものなのだ。》「唯物論のための方法序説」
《 表象は言語的なものの連鎖からなる。そのためにリアルの真実を、その全体性でとらえることができないのである。》「岩波現代文庫版へのあとがき」
以上、気になる箇所を抜書きしてみた。じつに面白かった。ドアが開いて未知の世界がそこに広がったよう。地球空洞説のようなトンデモ本かもという気もする。私にとっては、市川浩『精神としての身体』1975年、河合隼雄『影の現象学』1976年、佐藤信夫『レトリック感覚』1978年、そして中村雄二郎『共通感覚論』1979年と並ぶ刺激的な本だ。おや、どれも1970年代の刊行。1980年代で記憶に残る思想書は……なかったのか。
ネットの拾いもの。
《 干物つくってんのに雨とか勘弁してくれ 》
もう一本。米コダック社破綻を受けて。
《 「フジ」の裾野に「サクラ」咲く「アサヒ」の中で
「ニコン」と笑った、君の微笑み「キャノン」砲
思わず「ハッセル」正直者の「コダック」さん
筋肉痛に「オリンパス」 》