人間萬事

 山口瞳『同行百歳』講談社1979年、なんと評したらいいんだろう、と一晩考えた(ほとんど寝ていたけど)結果、古い言葉だけど、実話小説に落ち着いた。私小説でもノンフィクション・ノベルでもない。なにせ、読んでいて愉しくなかった。不愉快ではないけれど、なんだかなあ、という疑問がついてまわった。

《 この伯父にも私は憎まれた。》「墓地のこと」

 こういう文が苦手。

《 学校の勉強というのは、記憶力ゲームの一種である。それには全く不向きであり、関心すらない。》「学校」

《 私には愛校心というものがない。いや、そもそもそのことがわからないのである。》「学校」

 こういう箇所には一も二もなく同意。

《 私は、固く固くやってきた。それは貧乏を見ているからである。ほかの同胞の知らない貧乏を知っているからである。》「足」

 我が家は貧乏ではなかったけれど、こういう文章に出合うと、足が止まってしまう。

《 私は「乙女の像」が好きでない。あれは、高村光太郎としては失敗作ではなかったかと思っている。》「フィッシング」

 私もそう思う。

《 自動車もない。ゴルフもやらない。》「人間萬事」

 同じだ。あまりに身につまされるから、露悪自伝のようなこれに、不愉快ではないが、愉しくはないと思ったのだろう。

《 「人間萬事金の世の中」と書き、自分の名をいれた。》「人間萬事」

 ネットの見つけもの。

《 横浜美術館での松井冬子展、興味深かったのは主要な作品の大半に所蔵者の氏名が明記されていること。ふつうは「個人蔵」と名を明かさぬことが多い。さながらコレクターの欲望の競演のよう。これも「松井冬子」展ならではの風景なんでしょうね。》

《  瓦礫に花を咲かせましょう  》