ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読

 多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫を読むと、つまづいた箇所がよくわかる。つまづきの一端を納得。

《 ここでの機構( Apparatur )という言葉は、集合的な組織体ではなく、機械装置である。》94頁

 機構ではなく機械装置なら理解が進む。たった一語の翻訳で理解しにくくなってしまっていた。

《 触覚的知覚は、あえていうなら現象学的な経験の根源をなしている。現象学も含め、これまでの思想のほとんどが、視覚の比喩で成り立っていたことを思うと、触覚を根源に据えることは、思考そのものの大幅な組み替えである。しかも触覚は再現できないのである。》124頁

《 こうしてかなりゆきつもどりつする議論をたどってみると、彼の芸術理論の根源には、「遊戯性」と「触覚的」の概念があるといってよかろう。》129頁

 ここから自己流に脱線。去年から展示中の白砂勝敏氏の 木彫椅子は、この「遊戯性」と「触覚的」の双方を兼ね備えているふうに思える。常設展示の北一明氏の焼きものも、同様。そして哲学者 中村雄二郎の用語「共通感覚論」につながるように思える。

 昨日、来館された年配のご夫人とクラシックのピアニスト内田光子の話題で盛り上がった。昨夜は内田光子弾くモーツァルトピアノソナタのアルバムを三枚も聴いた。7番、8番、9番、11番、12番、15番、18番それから「幻想曲」「ロンド イ短調」。1980年代前半のデジタル録音。ディスクはオランダ盤のLPレコード、西ドイツ盤のCDそれに日本盤のCD。LPレコードの音が心に最も深く届く。CDでは、音と音の間に、息を呑むような深い深淵と奥行きが感じられない。深まりと奥行き感がまるで違う。漆黒の光を宿す黒いレコード盤と、虹色に放射する銀盤との違いか。いや、私の耳、ノスタル爺に原因があるのかも。

 きょう最初の来館者は、小学校低学年の兄弟(?)。「チョコレート、ください」。へえ。予備があったので手渡す。次の来館者は、十年ほど前に来たことがある、という男性。新聞で牧村慶子さんに興味を持ち、来館。食い入るように鑑賞。感動される。画集『異邦人』サンリオを所望されるが、売り物ではないので、ネットで探せばありますよ、と応える。味戸ケイコさんの「秋の風鈴」が印象に残っているとも。電話で味戸さんの「似合う」と「青い風」の掲載誌の問い合わせ。前者は初掲載は不明だけど、後者は『詩とメルヘン』1996年7月号に初掲載。