受難

 昨日はブックオフ函南店へ自転車で行く(漢字変換したら、辞典車に。どんな車じゃ)。河野多恵子『臍の緒は妙薬』新潮社2007年初版函帯付、北村薫『詩歌の待ち伏せ・上』文藝春秋2002年初版帯付、桶谷秀昭『昭和精神史』文春文庫2005年2刷、計315円。『詩歌の待ち伏せ・上』は贈呈用。既読の気がするけど、以前買った本は読んだ形跡がない。『昭和精神史』は、以前知人に贈ったけど、再読したくなった。

 昨晩は清住緑地愛護会の総会へ。総会後の講演がじつに興味深かった。三島市と清水町にまたがる(古くは伊豆の国駿河の国にまたがる)清住緑地は戦国時代には、北条、今川、武田、上杉そして徳川が、順繰りに占有していた。さらに古くは、富士山麓から御殿場泥流がここまで流れてきた。崖に痕跡。また、南の伊豆天城山からは火砕流がここまで及んでいる。白い細石がある。地質と歴史の面白さを堪能。

 毎日新聞昨夕刊コラム「近時片々」から。

《 「再稼働」めぐり、何かときぜわしく。たとえば、松本清張の名作タイトルだけを拝借してこんな短篇は。

  「ゼロの焦点」。原発ゼロ回避を焦点に急いできたが。一瞬ゼロなる新語も登場。

  「点と線」。電源の町と消費の都会と。虚栄の都会はそれを結ぶ送電線も町の存在も忘れ。

  「砂の器」。波にさらわれた安全神話。消え去ったはずが、寄せては返し、また寄せて。

  「半生の記」改題「反省の記」。現実味なく、原子力ムラでは空想科学小説の扱い。》

 姫野カオルコ『受難』文春文庫2002年初版を読んだ。『不倫(レンタル)』の変奏曲ともいえる。『不倫』が一人称にたいし、『受難』は三人称。主人公は修道院育ちの三十路の処女、フランチェス子。

《 フランチェス子は美術館にあるような石膏彫刻に似た顔立ちをしていたが、石膏さながら、すべての男に石の物体のように映るのである。》「第二章──小夜曲」

 なのに、周囲の男性はこんな評。

《 「チンチンが懺悔しはじめる」 》「第二章──小夜曲」

 脱力させるこの一文、米原万里も解説で取り上げている。

《 修道院育ちのフランチェス子は、在宅プログラマーとして、ひっそりと質素な生活をおくっている。彼女には「男性をひきつけるものがまったく欠落していて」男たちは彼女がそばにくるとやたら冷静な気分になって、「チンチンが懺悔しはじめる」。》

 そんな彼女のアソコに人面瘡が取り憑いたから、さあタイヘン。解説から。

《 恐ろしく口がたっしゃで意地悪な人面瘡は日夜彼女を罵倒する。「おまえは羊にも劣る、蒟蒻にも劣る、南極2号にも劣る」……要するに女として無価値であると。》

《 人面瘡と繰り広げる、どつき漫才のようなやりとりが、可笑しくて可笑しくてケタケタケタケタその場で笑い続けたのだった。》

《 オチにホロリとさせられた。》

《 それにしても、なんて不思議な読後感。放送禁止用語とパロディが悪ノリと思えるほど溢れかえる文面なのに、いつのまにか著者のかなり生真面目な哲学的とでも評すべき問題意識に引きずりこまれている自分がいる。》

 そのとおり。なんか引用ですべて語ってしまったような。だけじゃしょうがないから。人面瘡といえば谷崎潤一郎を連想するが、香山滋の初期の哀切極まる短篇『月ぞ悪魔』を再読。『受難』はこの裏返しのような……気はしないな。それにしても、姫野カオルコに興味のある人が周囲にいない……。