翻訳と日本の近代/身体の文学史

 昨夕帰りがけにブックオフ長泉店で二冊。ジェフリー・ディーヴァー『スリーピング・ドール』文藝春秋2008年2刷帯付、ホーソーン『緋文字』岩波文庫1996年10刷、計210円。

 毎日新聞昨夕刊、大澤聡「雑誌観測」冒頭。

《 1946年、丸山眞男は東大憲法研究委員会に参画する。並行して、庶民大学三島教室の講師に招かれる。一般向けの公開講座だ。晩年、こう回想した。教室の熱気は、明治維新時の世間の知的渇望感(『学問のすゝめ』の驚異的セールス)を疑似体験させずにはおかなかった、と。大転換期に人々は新たな社会のビジョンを求める。 》

 昨日取り上げた丸山真男加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書ではその尋常ならざる熱気がひしひしと伝わってくる。それにしても、三島市なのだ。

 養老孟司『身体の文学史』新潮社1997年初版を読んだ。『翻訳と日本の近代』に続いてこれを読んだのは、偶然ではなく必然、という気がした。どちらも明治維新以降を主題に据えている。『翻訳と日本の近代』から。

《 丸山 あの時代の文献を読むと、「足利時代の末の如く、これなり」というのがやたらに出てくるんだ。天下太平が音をたてて崩れると、甦る記憶は戦国時代なんです。サラリーマン化していた精神に武士の魂が現象的に甦る。 》18頁

 『身体の文学史』から。

《 軍隊では、身体は存在しなくてはならないが、他方では、統御されなくてはならない。(略)それを思えば、一般社会では、相変わらず江戸以来の身体消失の伝統が、十分に生きていたというほかない。ついには、神風特別攻撃隊において、身体の無視、心の優位という江戸の伝統は、奇妙な復活を遂げる。 》22頁

《 この国の近世社会は、そこから身体をおそらく意図的に排除した。近世の社会や思想はそれを排除するように構築されたのである。 》94頁

 明日に続く。

 午後、知り合いの銀行員が部下から鑑定を依頼されて、と明治時代の錦絵の折帖を持って来られる。明治十年代のものだ。楊州周延(ちかのぶ)、国周(くにちか)、芳年らの名前が見える。資料をお貸しする。

 ネットの見聞。

《 野田首相「安全が確認された原発から再稼働していく」と言明。つまり「大飯だけではない」と言っている。このままズルズルと伊方、玄海柏崎刈羽…と狙い撃ちにしていくつもりだ。では「安全」とは誰がいつどういうふうに確認したのか。野田首相よ、お前の確認など何の意味もない。本当に危険な男。 》

《 「人生の楽しみはその過程にある。命ははかないものだ。明日が確実に来るなどという保証はない。余計なものは全部捨てろ」 》

 ネットの拾いもの。

《 年賀状のお年玉くじの当落をチェックしないまま6月。 》

《 疲れきった感じの同居人の「(仕事の)数字管理とかイヤだ!」という嘆きに、「あー、スージー・カンていたよね」と返して激怒されなう。 》