草枕/版画展最終日

 雨が止んだので自転車で来る。一息すると再び雨。そして晴天。暑い。天窓を開けて風を抜けさせる。

 夏目漱石草枕1906年について、『文学全集を立ちあげる』(丸谷才一・加島茂・三浦雅士)文春文庫での丸谷の発言。

《 まず、「我輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」「それから」、この四つは絶対に入れる。「草枕」は外す。あと何を入れるか、という問題。 》186頁

 それで読まなかったけれど、松岡正剛の「日本の数寄を読む五冊 」選出を知り、彼と同じく新潮文庫で読んだ。これは面白かった。

《 うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。…… 》

《 春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。 》

《 昔から小説家は必ず主人公の容貌を極力描写することに相場が決まっている。古今東西の言語で、佳人の品評に使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経とその量を争うかもしれぬ。 》

《 世間に茶人程勿体振った風流人はいない。広い詩界わざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である。 》

 なんとも小気味いい科白を語り手の画工(えかき)に吐かせている。画工だから絵への言及も当然ある。

《 画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼(ばば)と、芦雪のかいた山姥のみである。 》

《 横を向く。床にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、既に逸品と認めた。 》

 堂に入った分析がつづく。流石漱石。百年前は長沢芦雪伊藤若冲もよく知られた画家だった。

 ネットの見聞。

《 以下が現代日本メディア空間のタブーのひとつ:「脳死の幼児からの臓器摘出は親の意思であって子ども本人の意思ではない。『この子の臓器が誰かの身体で生き続けていてほしい』という願いは親のエゴの表現である。臓器摘出される脳死の幼児は本人のためにならない手術を親のエゴで強制される」 》 森岡正博

《 6歳脳死臓器提供。親の重い決断、子を死に手放すことが「善意」とされる。その裏に重い障害を持つ子に長く生きられては自分たちが困るという親のどす黒い利己主義が隠れていることを忘れてはならない。障害者差別がいわば「善意」「社会貢献」に形を変えて絶賛されるのが脳死臓器移植。 》 川口有美子

 ネットのうなずき。

《 昔、CD販売をやっていた事があるからこっちは身に染みてんだけど、レコード会社はもう忘れたのかねぇ、CCCDの悪夢を。まさか10年経たずして同じような失敗繰り返すとは思いもしなかった。 》

《 バイキング料理など、幾ら高級な食材を使っても、不特定多数の人間の吐息に晒され、ぐちゃぐちゃに引っ掻き回され、仕舞いには味も素っ気も無くなる。 》