「いき」の構造

 ブックオフ長泉店で二冊。ロアルド・ダール『ガラスの大エレベーター』評論社2005年2刷、ハル・ホワイト『ディーン牧師の事件簿』創元推理文庫2011年初版、計210円。前者は田村隆一の訳を持っているけど、柳瀬尚紀の「訳者から」を読むと、こりゃ買うしかない。

《 この作品も、言葉を楽しむ人たち、「金もうけ」の一語以外の言葉に興味をもつ人たちに喜んでいただければ大変にうれしいです。 》

 九鬼周造(くき・しゅうぞう)『「いき」の構造』岩波文庫2007年48刷を読んだ。いき=粋を構造的に解明した著作として高名なこれをやっと読んだ。若い頃だったら途中で投げ出していただろう。表紙の惹句から。

《 「運命によって〈諦め〉を得た媚態が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である」 》

 本文から。

《 いわゆる客観的芸術にあっても「いき」の芸術形式が形成原理として全然存在しないことはない。たとえば、絵画については輪廓本位の線画であること、色彩が濃厚でないこと、構図が煩雑でないことなどが「いき」の表現に適合する形式上の条件となり得る。 》 62頁

 では、どの絵がそれに適合するだろう。日本画鏑木清方の代表作「築地明石町」1927年がまず浮かぶ。というか、これしか浮かばん。九鬼周造の定義とは少しずれているが、この女性の表情、仕草はまさしく「いき」だと思う。

《 およそ意識現象としての「いき」は、異性に対する二元的措定としての媚態が、理想主義的非現実性によって完成されたものであった。その客観的表現である自然形式の要点は、一元的平衡を軽妙に打破して二元性を暗示するという形を採るものとして闡明(せんめい)された。そうして、平衡を打破して二元性を措定する点に「いき」の質量因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現実性が認められた。 》 58頁

《 運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。 》 95頁

 心に沁みる。

 『「いき」の構造』草稿の終わりには「一九二六年十二月 巴里」、論文として雑誌に発表されたのは1930年。

 ネットの拾いもの。

《  焦った── 男子トイレの個室から若い女性が出てきた。……さぁーて、ワトソン君本当に女性かな! 》