昨日の続き。竹西寛子『ものに逢える日』は、どの短文も平明な言葉でよどみなく、すらすら気持ち良く読めるが、時折どきっと深い表現がさり気なく織り込まれ、著者の思索の深淵を覗かせる。
《 実在を、存在を問いつづけることなしに、表現の深化もまたあり得ないと思うとき、世界解釈への意思は、世界感受と相即して表現の前提となる。 》「宗教と私」
《 人間の不可解、とくに、言葉を用いる人間の不可解への関心は、幸か不幸か、優しく恐ろしい天上の楽の音を恋うようなときめきと、わが身の生傷をわが指で掻き抉るのに似た感覚とをまだ失っていない。 》「物の怪について」
《 死を全うしていないものにどうして死者の魂など鎮めることができるだろう。鎮魂とは所詮死を経験できない生者の、不安と祈りに発した知恵に過ぎない。自分自身の魂鎮めなのだ。 》「広島が言わせる言葉」
《 芸術には、毀して得られる新しさもあれば、頑なに守ることで得られる新しさもある。 》「ボリショイ・オペラ」
《 新しさの毒は、いつでも新しさの蜜よりおくれて気づかれる。 》「毒の周期」
《 ありふれた言葉でつくられたありふれぬ世界は、こうした作者の細心の配慮を沈めてとかくもの静かである。それは、言葉で存在に深まっている作者特有のもの静かさであるのかもしれない。存在に深まれば深まるほど、高い声は厭われるように見受けられる。 》「古典の言葉」
招待状が届き、帝国ホテルで夕刻から催された、やなせたかし氏の94歳のお祝いパーティに出席。
その前に神田神保町へ行き、古本屋を冷やかす。コミガレ(小宮山書店ガレージセール)に遭遇、三冊500円台から石原吉郎『海を流れる河』花神社1974年初版函付、同『断念の海から』1日本基督教団出版局1976年初版函帯付、竹西寛子『式子内親王・永福門院』筑摩書房1972年初版函付、100円台から織田正吾『笑いとユーモア』ちくま文庫1986年初版帯付、『学園ミステリー傑作選 第2集』河出文庫1988年初版帯付、計700円。重い袋を提げて会場へ。なんで買ってしまったんだろう。
ネットの拾いもの。
《 某雑誌で200字の近況がいるのだけど、私の近況って、この前インフルエンザにかかった。でもまあ、なんとか直った。……40字で終わってしまう。 》