復興期の精神・続き

 花田清輝『復興期の精神』講談社文庫から少し、引用。

《 闘争をしているともみえなかった人間が、実は最も大きな闘争をしていたのだ。 》 「天体図──コペルニクス──」

《 無智から素朴さはうまれはしない。ほんとうの素朴さは──そうしてまた、ほんとうの謙虚さは、知識の限界をきわめることによって生まれてくる。それは、ほんとうの闘争が、一見平和にみえるようなものだ。 》 同

 とりわけ興奮した「歌──ジョット・ゴッホ・ゴーガン──」から。

《 ゴッホが生の味方であり、ゴーガンが死の味方であることは、私にとっては、まったく自明の事実だ。 》

《 かれらの時代は、ルネッサンス以来支配的であった生の韻律が、ふたたび衰えはじめ、死の韻律が、二度目の制覇にむかって、その一歩を踏みだそうとするときにあたっていた。 》

《 そういう意味において、まさしくゴーガンは時代の子であり、ゴッホは時代のまま子であった。 》

《 ゴーガンはタヒチにむかって、逃避したのでもなく、休息に行ったわけでもなかった。かれは、そこでヨーロッパにいるときよりも、いっそうひどく働くために行ったのだ。憧憬の土地は、はたしてゴーガンの期待を裏切らなかったであろうか。まさにかれは幻滅を感じた。 》

《 ゴッホは熱帯へ行こうとはしなかった。 》

《 躍起になって突き離そうとするヨーロッパに、かれは、あくまでしがみついた。 》

《 コロニイの実現にむかって、ゴッホを性急に駆りたてたもののなかに、かれのルネッサンスへの憧憬のあったことを見落としてはなるまい。 》

 このように論述されるゴッホ論は、目が覚めるような鮮やかな見方が提示されていている。ゴーガンとゴッホ。永いもやもやが晴れてきた。二人の絵画の本質的な内実がやっと見えてきた。吉田秀和の『調和の幻想』によって、マネとドガの絵画の輪郭がはっきり見えてきたように。どこで蒙が啓けるか、わからないものだ。

 鶴見俊輔は1971年に書かれた解説に書いている。

《 この作品は、二五年前にくらべて、かえって若々しくなっている。 》

《 花田がヨーロッパのルネッサンスにひかれたもう一つの理由は、日本に輸入されて来た一九世紀のヨーロッパの近代文化にたいするうたがいであろう。 》

 吉田健一の『ヨオロツパの世紀末』と相通じる視線だ。それにしても復興期の精神、大震災後の今、ひどくリアリティがある。

 ネットのうなずき。

《 震災が風化しているという人もいるけど、僕の中ではまったく風化していない。あの津波の映像を何度でも生々しく思い出すし、原発が冷却を失ったと聞いたときのショックはいまだに忘れられない。頻繁に口にしないことを風化と呼ぶのはちがうと思う。 》 阿川大樹

《 もしも自分があの日津波で死んで、遺体が放射性廃棄物の瓦礫に海に未だ沈んでいると考えたら「津波は天罰だ」「原発推進」「復興のためにオリンピック招致」なんてほざいてる人間を絶対に許さないよ。 》 藤岡真

 ネットの拾いもの。

《 副都心線と東急の乗り入れ反対!(座れる副都心線を守る会) 》