時雨の記

 夜は時雨ならぬ春の嵐

 中里恒子『時雨の記』文春文庫1981年初版を読んだ。200頁足らず、すらすら読んでしまった。古屋健三の解説から。

《 大人が読んでも気恥ずかしくならない、いや、大人でなければわからない恋愛小説、それがこの『時雨の記』だと思う。 》

《 ここでは五十男と四十女の交情がしみじみと描かれていて、すこしもわざとらしくない。 》

《 この恋は夢や迷いではなく、目覚めとして意識されている。 》

 これが大方の印象であろう。私は、会社を成長させてきた豪腕社長の、ヒステリーの妻に目が留まった。

《 俺は、言えば言うだけ不愉快になるのをおそれて、そのまま出勤した。 》

《 「息子夫婦が、突然、家を出ると言って、さっさと、自分の車で出ていったあと、トラックが来て、まとめておいた家財を運び出した、どうしたんだ、ときいても細君はかんかんになっていて、あなたが止めてくださらないとか、昨夜だって息子と話ぐらいなさったでしょう、いきなり出てゆくというのを黙っていらしたんですかと、喰ってかかるしね…」 》

《 いや、ともかく嫁の実家へひきあげたらしい、それが憎らしいと、細君は、あのひとでなしの嫁は、離縁させますと、まるで、自分の嫁のように言うんだ、」 》

 家族の難しさをしみじみ実感。井上靖の長編『化石』講談社1967年を連想した。こちらは建設会社の同世代の社長が主人公。その末尾。

《 金、金、金と、追いかけるのも厭ですね。少しでも、えらくなろうと、あくせくするのも厭ですね。鳥の声を聞いて、ああ、鳥が鳴いていると思い、花が咲いているのを見て、ああ花が咲いていると思う、そんな生き方がいいですね。 》

 功なり名遂げた『時雨の記』の社長と同じ心境だ。それを、今の日本に。