ニーチェ

 花曇リ、花冷え。花見は見送り。

 『現代思想の源流』講談社2003年初版収録、三島憲一ニーチェ」を読んだ。ニーチェの受容からユーゲントシュティール(ドイツのアールヌーボー)等を経て、

《 ニーチェ自身も、そしてニーチェのさまざまな受容も本当はまだとらえきれていない問題の所在がどの辺にあるか、それゆえニーチェ思想のどの部分がいまなお活性化されていないオプションとして残るのかということを、模索してみよう。 》

《 問いは問いを呼ぶ。そうした物語にちりばめられているツァラトゥストラの説教は、豊饒な生命と美のなかへ──言語の表現力によって──消え入り、転成する喜びを歌う。認識の迷宮は、太陽の光を浴びて、生命の大海原の鼓動と同一化する。 》

《 強度な経験への欲求は、ニーチェおいても、ニーチェを最初に読んだ世代においても市民文化の批判と不即不離であった。 》

《 市民社会における擬似的な強烈な経験が断片性を免れないのは、共同性が欠如しているからである。 》

《 たえず同定を避け、無限に変奏を続け、同定のために必要な次の旋律が期待されるところでは、深い沈黙の中に静かに、あるいは突然消えていくような文章。》

《 また、内容的にも現代ドイツとも、ヨーロッパとも、特定の思想や専門とも自己を同一化することは徹底的に回避されている。 》

 『ツァラトゥストラ』と三島憲一ニーチェ」を読んで思ったのは、ファン・ゴッホとの共通性と共時性ニーチェは1844年生〜1900年没。ファン・ゴッホは1953年生〜1890年没。1889年、ニーチェは精神病を発症、1月に精神病院へ入院。ファン・ゴッホ1888年末、精神病院に入院。その差、わずか一月。思想がどうのこうの、ではなく、作品から受ける二人の気質、表現の仕方、南へのあこがれなど、深いところで通底している気がする。不思議な暗合を感じる。誰か指摘していないかな。

 ネットの見聞。宮城県の古書ビブロニア書店の貼り紙。

《 「ビブリア古書堂」はここではありません!…まちがえることないか。(笑) 》

 現代アートと称されるものの大半は、下記の一行でことたりる。

《 インスタレーションと中途半端なコンセプチュアル・アートと映像作品が並べられている。 》

 第8回オタク川柳入選10作品から私の好みを二つ。

  萌えキャラも 母の名前じゃ 萎えキャラに

  ツンデレも 二次元までだ 覚えとけ

 ブックオフ長泉店で二冊。赤染晶子乙女の密告』新潮社2010年初版帯付、宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜新潮文庫2003年34刷、計210円。