最後のコラム

 きのうは強風きょうは穏やか。気持ちまでゆったり。ゆったりとブックオフ長泉店へ。吾妻ひでお『失踪入門』徳間書店2010年初版帯付、綾辻行人『アナザー Another 』角川書店2009年初版、久世光彦『昭和恋々 Part II 』清流出版2003年初版帯付、皆川博子『倒立する塔の殺人』理論社2007年初版帯付、北森鴻『親不孝通りラプソディー』講談社文庫2012年初版、計525円。うーん、満足。いい天気だ。それにしても「きたもりこう」を変換すると「北も履行」。なんだかなあ。

 一昨日昨日と取り上げた『戦後名詩選1』で収録されていた鮎川信夫( 1920-1986 )の詩について、城戸朱理は書いている。

《 第二次世界大戦を生き残り、見送った死者を代行することに自らの詩的営為を賭けた鮎川信夫は、戦後詩の象徴的存在と言ってよい。》

《 それは主情的な詠嘆に彩られた近代詩とは別の次元に開かれていく新時代の詩を、田村隆一らとともに体現するものであった。 》

  「主情的な詠嘆に彩られた近代詩」という指摘に、腑に落ちる思いがした。中原中也宮沢賢治らの詩に、馴染めない違和感をずっと感じていた。それがこの一文ですっと解消した。

 鮎川信夫『最後のコラム』文藝春秋1987年初版の副題は「鮎川信夫遺稿集103篇 1979〜1986」とある。帯にはこんな一文。

《 錯綜した迷路の時代に、この稀有の書を。 》

 1985年のコラムからいくつか。「森嶋通夫の学歴社会論」から。

《 校内暴力、非行の増加、登校拒否、いじめ等で、今日の教育は荒廃しているとおわれる。その原因についても、社会の変化と情報メディアの多様化に伴う家庭の教育機能の低下、物質万能主義にによる心の不在、受験戦争の深刻化など、さまざまな理由が挙げられている。》

《 凡庸で退屈な教育論が氾濫している中で、森嶋のこの本は、大変刺戟的である。彼は道徳教育の復活には反対だという。復古、反動、軍国主義につながるからではなく、時間と国費のむだ使いだからだという。誤解されやすい挑戦的な言葉だが、よくよく読めば、すべての先生が徳育の見本だといっているのと同じである。それが分からない人には、「あなたが高潔な人格者であるのは、修身教育のおかげですか」と問えばよい。 》

 今の話題かと思った。「伊藤憲一『国家と戦略』」から。

《 現在の日米、日欧の貿易摩擦については、「摩擦とともに生きるという考え方ないし姿勢が必要なのであり、存在しない特効薬をみつけようとすることのなかにではなく、新しい<国交条件>をたえず模索しつづけることのなかかにこそ」安住の地がる、と説く。 》

 TPPをはじめ、今の話題かと思う。「栗本慎一郎鉄の処女』」から。

《 いくら平和と民主主義の世の中でも、こう不要の人が多くては窒息してしまう。と、誰しも自分を勘定に入れずに思っている。 》

 皮肉な論をさりげなく挿入する。「オルテガの『傍観者』」から。

《 傍観者は思索する者であり単独者である。集団主義や超個人的な見解とは鋭く対立する。「個人的な観点こそが私には世界をその真実において眺めうる唯一の観点と思われる」という彼にとって、現実が姿を現すのは「個々人の遠近法(パースペクティブ)の中においてだから、誰でもが自己の遠近法に忠実であれ、というのが衷心からの願いとなる。 》

《 傍観者といい、遠近法の大切さを説いても、けっして静観主義ではなかった。「われわれには新たなるものを予感する義務がある」と言い、そのためにはわれらが魂は、寝ずの番をしていなくてはならないと主張した。慣習、権威、既成事実といったありとあらゆる諸特権をひきずった「古きもの」に欺かれることはなかった。文化を創造する能がない者にかぎって、伝統的な文化を、埃を払って持ち出してくる。 》

 深く同感。

 きょうのうなずき。

《 大事なものは見えにくい (角川ソフィア文庫鷲田清一の本) 》

《 まったく交通費がもったいない…古本は見つけた時に買いましょう! 》

 ネットの拾いもの。

《 爆弾を解体中に残った赤と青の配線。犯人は「赤を切れ」と。犯人は主人公の親友。

  信じて赤を切って爆弾が止まる→アメリカ映画
  信じず青を切って爆弾が止まる→イギリス映画
  信じて赤を切って死ぬ→イタリア映画
  信じず青を切って皆死ぬ→フランス映画

  残り3秒で遠くに投げる→日本アニメ  》