憲法記念日/ジャズからの出発

 伊豆高原アートフェスティヴァルに、知人のギャラリー・カサブランカが牧村慶子さんの絵を出品。お手伝いに行く。伊豆高原は、二十年ほど前、池田二十世紀美術館での上條陽子展へ行って以来。小鳥のさえずりが賑やか。

 昨日取り上げた相倉久人『ジャズからの出発』音楽之社1973年初版から。

《 音楽の価値は、その歴史的意義や社会的役割によって決定されるものではない。そういった有効性をこえたところで、演奏家の内面から直接わき出してきた力によって、音楽に盛られた下意識の量として計られるのである。それ──「有効性の上にあるもの」としての価値判断の基準を、かつて本多秋五は「品位」あるいは「品格」であるといった。 》 「音楽の品について」より

《 そういえば、現代はエロティックなものを失って、かわりにもっぱらポルノグラフィックなものだけが幅をきかせている時代だ、と言った人がいたっけ。 》 「ポストジャズ・イン・クラウド」より

《 エロティシズムのないところに、真の表現はない。表現とはほんらい、精神の内奥に秘められた根源的欲求の顕在化──つまりは生命力のリズミックな発現にほかならないはずだからだ。エロティシズムの追及が、とどまるところ死と再生の秘儀に到達するように、表現もまた究極的には死のかなたにみずからを蘇生させようと志向するものなのである。したがって死の頽廃、エロティシズムの喪失は、必然的に表現の不毛化をもたらす。 》 同

 このような言説を四十年前に読んで感化された。今でもその影響下にあるようだ。

《 六○年代から七○年代へ抜けるトンネルの中で起こった位相の転位によって、今や内容のあるものはすべてインチキであり、見せかけだけが意味を持つようになった。 》 同

 ここへきて再び位相の転位が起きつつある気がする。私の希望的観測にすぎないかも知れないが。