瀧口修造のミクロコスモス

 伊豆高原での牧村慶子展のお手伝いに出かける。きょうもウグイスがきれいな声で囀っている。

 本棚に月刊太陽1993年4月号『特集 瀧口修造のミクロコスモス』平凡社があるのに気づいた。新刊で買ったと思うが、すっかり忘れていた。

「オブジェ・コレクション全250 デカルコマニー/ドローイング/水彩/ロトデッサン/吸取紙/漂流物/コラージュ/バーント・ドローイング/リバティ・パスポート/オリーヴの木」。

 瀧口のデカルコマニーは、何だかなあと、ずっと理解の外にあった。今回、この特集に掲載された巖谷 國士(いわやくにお)のエッセイ「瀧口修造とデカルコマニー」を読んで理解へのとば口が見えた。

《 デカルコマニーは何かを表すのではない。先在する何かを外へ押しだすという意味での「エクス-プレッシオン(表現)」ですらないのかもしれない。むしろ彼が戦前から求めつづけていたような、それ自体が「実在」でありうる言葉、また「行為を拒絶する」行為としての詩──であったのかもしれない。 》

《 これに見入っていると、こちらもまた、かぎりない受動性のなかにおかれてしまうかのようだ。すくなくとも俗な「幻想」にふける余地などない。溜息をつくばかりだ。 》

 また、土渕信彦のエッセイ「彼岸のオブジェ」の以下のくだりを読むと、そこから別の方向へ関心が向く。

《 オートマティスムとはある個人の意識下の世界を主観的に表現しようとする創作手法のことである、と考えるのは誤解であって、むしろこの実験においては、実験者である「私」は作品の創作者ではなく、「私」に対して彼方から発信されてくる「記号」や「謎」の受信者と化している。すなわち、そこでは旧来の「ある特定の個人に創造行為」という概念が覆され、「誰かとしての私」における影像の発生に、「私としての私」が立ち会うという、一種の自我の二面化(二股的構造の明確化)を通じ、創造行為の非人称化・無名化(つまり一種の客観化)が図られているのである。 》

 ここから瀧口修造のドローイングとは異なった、新たな絵画が出現する可能性を感じる。あるいはもう出現しているかもしれない。瀧口修造もまた、時代の制約のもとにいた、といえるような。

《 それは正午、巨大な眼、僕のペンはピサの斜塔のやうに異様な均衡を保ちながら動きだす。 》 瀧口修造「詩と實在」

 ネットの拾いもの。

《 日本人は、アフターファイブになったら良く働くんですよ。何故だか家に帰りたくない人が多いから。 》

《 九州から初めて東京へ見物に来た人。「おい、あのオイオイてのはなんね?」「マルイマルイ」 》