天才たちの値段

 お昼近く、龍澤寺の雲水たちが声を張り上げて通る。午後、雷雨。

 昨日買った門井慶喜『天才たちの値段』文春文庫2010年初版を読んだ。副題が「美術探偵・神永美有」とあるように、ボッティチェッリフェルメールから古地図、涅槃図まで、美術品を巡るミステリー五篇を収録。手をかけて仕込んだ題材と結末のヒネリがよく効いていて、これは面白かった。フェルメールの『天秤を持つ女』が出てくるなんて、タマラン。

《 私はこの傑作をワシントンのナショナル・ギャラリーで見た。 》

 私は、修復を終えて色が甦ったこの傑作を、大阪市立美術館で存分に堪能した。

《 「何をなさっている方なんです? 美術関係の会社にお勤めですか? あるいはジャーナリズム関係?」
  「泰平の逸民」 「つまり無職」 「そうとも言いますね」  》

 私と同じだ。

《 応接室は、相変わらず書類の綴りやら高価な画集やらが無造作に積まれて埃っぽい。この人にかかると、どんな手のこんだ瀟洒な部屋も古本屋になっちゃうんですよといつか奥さんがこぼしていたが、とんでもない、たいていの古本屋はここよりよほど整然としている。 》

 私の部屋と似ている。などなど、微苦笑を誘う箇所があちこち散在している。

 一昨日の毎日新聞書評欄。ジャレド・ダイアモンド『昨日までの世界(上・下)』日本経済新聞社の、鹿島茂の評から。

《 「伝統的社会においては、孤独は問題にもならない。だれもが生まれた場所や、その周辺で人生を送り、親戚や幼なじみに囲まれて過ごす」。そう、自由と引き換えの孤独地獄こそが文明社会の宿痾である。 》

 この引用「 」に、岡本綺堂の『半七』シリーズを感じた。まさに江戸。

 山藤章二『ヘタウマ文化論』岩波新書の、井波律子の評から。

《 こうして見ると、上質のヘタウマ文化は、ウマくなるためのプロセスをきっちり踏み、型を身につけた人々が、さらなる飛躍をめざし、型を壊して脱皮するという、創造的破壊によってはじめて編み出されるといえよう。江戸文化このかた日本では、こうした創造的破壊が、サブカルチャーの分野において、ちょっと斜に構えた遊びのポーズで脈々と行われてきたことを、本書は的確に示唆している。 》

 コラム「昨日読んだ文庫」は、文化庁長官・近藤誠一マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』平凡社ライブラリー

《 三つのことが頭をよぎった。 》

《 欧米人は抽象性を求める点で日本人と同じだが、主として目に見える物質を通してそれを行う。 》

《 工芸品が欧米では芸術品より低くみられてきた原因は、彼らが芸術とは日常生活から離れた高尚な営みであり、生活を便利にする道具と区別してきたことにあるのではないだろうか。 》

《 第三は、日本人は自然の中にも、つまり人間がつくったものではないものの中にも、真実への誘(いざな)いをみるということだ。 》

 よく目にする指摘だが、自身そうだろうな、と賛同する。日本絵画の余白(見えない・何もない)の重用など、

 日本絵画における余白の特異性はよく指摘されるが、今、余白・空白の今日的な積極的意味合いを集中的に考えている。今日的な余白・空白は、唱歌「日の丸」の♪白地に赤く日の丸染めて♪という、旧来の図=主、地=従という構図ではない。私の考えているのは、図と地の分断不要性、等価性。さらには描かれた図から描かれない地(余白・空白)への重点移動。また、その接点・接線のざわめき。余白・空白からさらに進んで、空・白・虚の領域が眼目の作品へ。思考はただならぬ漂流を始めた。《 そう、自由と引き換えの孤独地獄 》? いや、新たな海路=回路の開発へ。明日へ続く(つもり)。

 ネットのおどろき。

《 *『坂東壮一蔵書票集』出版計画・進行中! 大人気版画家・坂東壮一さんの蔵書票作品集を、 江副章之介さんが版元となって(レイミア・プレス) 来年、出版します。 》 田中栞

 上記田中栞ブログで紹介されている銅版画家林由紀子さんはきょう、ウイーンヘ一週間ほどの旅へ。

 ネットのうなずき。

《 日本国憲法こそがクールジャパンである。 》

《 96条改正に反対の理由:憲法は政治の権限を国民が制限するためのルールなので、憲法改正に関して政治の権限を強める「過半数で発議」を認めるわけにはいきません。 》