イデアの影

 牧村慶子展のお手伝いで朝、伊豆高原へ。午後六時過ぎ帰宅。

 河原温の「日付絵画」シリーズ、ネットの紹介文を借りる。

《 代表作<デイト・ペインティング>は、それが制作された日の日付を描いた絵画で、その絵画を収める箱の内側には、当日の新聞の切り抜きが全面に貼られています。 》

 箱の外側上部には英語で日付が描かれている。例えば《 MAR.22.1978 》。看板屋さんがきちんと描いたように描かれている。それだけ。だれでも真似できる。

 昨日、「虚空という補助線」の概念を援用することで、河原温の『日付絵画』へのとっかかりを掴んだ旨を記したが、まだとば口にいる。コンセプチュアル・アート概念芸術の理解とは違った道筋をとりたい。その道筋は、ギリシャ哲学の「イデアの影としての実在」だ。

 それがただの物入れの箱ではなく、芸術作品としてあるための必須条件として、日付は塗られているのではなく、描かれている。筆触は消し去られているように見えるが、私がただ一度だけだが実見した時、それは塗られたのではなく、描かれたと直観した。なぜかはわからないが。

 『日付絵画』は、「イデアの影」としてある。

《 われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える。 》

 ギリシャ哲学は門外漢なので、それ以上立ち入らない。ただ理解への補助線として、使わせていただいた。

 河原温の『日付絵画』は、それだけを見れば印刷されたカレンダーと見間違える、ありふれた図像だ。すると、連想はアンディ・ウォーホルの『キャンベル缶』の絵やリキテンシュタインのコミック漫画のコマを拡大したような絵へとつながる。『日付絵画』は彼らの絵と表面上は同種なのだ。

 しかし、『日付絵画』は平面絵画ではなくて箱であり、箱の中に新聞(の情報)が仕込まれている。絵では終らない。『日付絵画』は、情報〜イデアの日付の記号であり、絵画=象徴である。描かれた字面(日付)は、飛躍して言えば、イデアの影なのだ。重要なのは、中の新聞の情報。しかし、そのイデア〜情報自体は、それだけでは虚空、というよりも実体の無い空虚なもの。情報〜イデアを受け取る人がいて初めて実体となる。

 その過程では、「日付絵画」を描いた人はその存在が消えている。「日付」だけが重要なのである。例えば看板表現に凄いアイデアを案出した人がいて、その人には関心が向けられるが、そのアイデアを看板に実現した(塗った)ペンキ屋さんについては誰も関心を払わないように。「日付絵画」を発表して、河原温は自身を消し去った。観客は、イデアの影を実体としてあがめる。……うーん、隙間だらけの論述だ。まだ練れていないなあ、当然だけれど。

 埴谷雄高の短篇『虚空』を久しぶりに再読。「虚空」という用語が適切かどうか、心もとなくなる。まあ、新規なことが新奇と見えることは多々ある。見直しは柔軟に対応(って、誰に向って言ってるのか)。