聖少女

 倉橋由美子『聖少女』新潮文庫1981年初版を読んだ。彼女は晩年中伊豆(現・伊豆市)に住んでいた。三島の知人の店によく来ていた、彼女が亡くなってその店も主が亡くなり、店は跡形も無いことを、ふと思い出した。晩年の本を読もうと手に取ったが、気が変わって『聖少女』に。同じ中伊豆(現・伊豆市)出身の漫画家中村光の『聖☆おにいさん』からのひっぱりかも。

 久しぶりの倉橋由美子。『聖少女』の一頁目から惹き込まれた。才気煥発。鮮烈に爆走(暴走ではない。念のため)する文章。冒頭から一気に読書の快感。疾走、迷宮、混沌、帰結。こんな新鮮な読後感は久しぶりだ。傑作だ。1965年に発表されたとはとても思えない。なんと華麗なレトリック。巧緻な構成。

《 今日のあまたの現代小説、なかでも村上春樹吉本ばなな江国香織に代表され、それがくりかえし踏襲され、換骨奪胎され、稀釈もされている小説群の最初の母型は、倉橋由美子の『聖少女』にあったのではないかと、ぼくはひそかに思っている。 》 松岡正剛『千夜千冊「聖少女」』

 松岡は冒頭で書いているが、首肯する。そうなのだ、後進は「希釈」なのだ。若い時に読んでもこの真の面白さは読み取れなかっただろう。今ならわかる。

 ネットの見聞。

《 時間というのは客観的実在ではなくて、「人間の生身」が生命活動を効果的に分節し、資源配分するために要請した「概念」だと思います。 》 内田樹

 『聖少女』のヒロインの自動車事故にまつわる記憶喪失へつながる。それにしてもなあ、松岡正剛よ、ヒロイン=聖少女の名前を書き間違えちゃあいかんよ。

《 「名前は?」
  「ミキ。未だという字に糸偏の紀」 》

 ネットの拾いもの。

《 幕末に薩摩の人と会津の人が話した際に、方言が強くて言葉が通じず、謡の言葉で会話してやっと通じたという…… 》

《 昭文社と旺文社のコラボ「どっちがどっち?!」キャンペーン

  社名が似ていて間違う人が多く、両社が会社の垣根を越えて共同企画を始めたと言う 》